観測室の空気は、いつも夏の匂いがしない。 調整された摂氏22度の無機質な空間で、俺、リクはホログラムに映し出された5年前の夏を、飽きもせず再生していた。 『記録番号815。再生開始』 合成音声が響き、目の前にまばゆい光が広がる。蝉時雨、むせ返るような緑の匂い、アスファルトを焼く陽光。そして、日に焼けた肌で無垢に笑う、幼馴染のミオ。
「タイム・オブザーブ」技術が確立され、人類は過去を覗き見ることができるようになった。歴史のアーカイブ化。それが、時間観測局に勤める俺の仕事。しかし、俺が本当に観たい記録は、いつも一つだけだった。 5年前、原因不明の「時空震」にミオが消失した、あの夏。
公式記録では、彼女は消失の直前、俺に何かを伝えようとしていた。だが、その音声はノイズで破損している。 『夏の暑さのせいにして』 ただ、所為にして、俺は彼女の言葉に耳を傾けなかった。その胸に秘めた想いから、目を逸らした。後悔だけが、俺をこの観測室に縛りつけていた。
その日、俺はついに禁忌を破る決意をした。非公式のプログラムを起動し、自身の意識を過去へ飛ばす「ゴースト・ダイブ」を敢行する。目眩く光に意識が焼かれ、次の瞬間、俺は蝉時雨の降り注ぐ、あの夏の日の中に立っていた。
神社の石段。 汗ばんだシャツで未来を熱っぽく語るのは、紛れもない5年前の俺だ。その隣で、ミオが相槌を打ちながら、ラムネの瓶を傾けている。カラリ、と涼やかな音を立てて、ビー玉が転がった。
「すごいね、リクは。ちゃんと夢があって」 「ミオだってあるだろ?」 「わたしは……どうかな」 そう言って、ミオはどこか寂しそうに笑う。ゴーストである俺は、彼女に触れることも、声をかけることもできない。ただ、そこにいることしか許されない、透明な傍観者だ。
『ゆっくりと、ゆっくりと、見えない速さで』、二人の時間は進んでゆく。溶けた氷と時間を紡ぐように、何気ない会話が、輝くような夏の午後を形作っていた。 俺は、こんなにも大切な時間のすぐ隣にいたのに、何一つ見えていなかったのだと、今さらながらに思い知る。
そして、運命の日が訪れる。 帰り道、茜色の空が二人の影を長く、長く伸ばしていた。もうすぐ夏が終わる。その限りを知らせるように、ひぐらしが鳴いていた。 ミオが、ふと立ち止まる。意を決したように、俺を見つめて、小さな唇を開いた。
「あのね、リク。わたし──」
その瞬間だった。 まるで世界が口を噤ませるように、ひぐらしの声が一段と高まり、強い風が二人の間を吹き抜けた。そよ風が夏を揺らし、彼女の言葉を攫っていく。
「え、何か言った?」 当時の俺は、間の抜けた声でそう聞き返すだけだった。ミオは一瞬、泣き出しそうな顔をして、すぐに力なく首を振る。 「ううん、なんでもない。夏の蝉のせいかな」 胸につかえた言葉は、そうして隠れてしまった。
彼女が寂しそうに笑った、その時。 世界がぐにゃりと歪んだ。時空震だ。ミオの体が、足元から淡い光の粒子になって、空気に溶けていく。 「ミオ!」 高校生の俺が絶叫する。その声は、ゴーストである俺の胸を貫き、現在にまで届いた。
ハッと我に返ると、そこはいつもの観測室だった。頬を、一筋の涙が伝っていた。 俺はすべてを知った。彼女が伝えたかった想いと、それを受け取れなかった俺の罪を。過去は変えられない。後悔が消えることもないだろう。 だが、暗闇の中に、小さな灯火がともった気もした。彼女の想いは、確かにそこにあったのだ。
俺は静かに立ち上がり、観測装置のメインスイッチに手を伸ばす。もう、過去に囚われるのはやめよう。 カチリ、と音を立てて電源が落ち、観測室は完全な静寂に包まれた。 俺は窓を開け放つ。夜の生暖かい風が、夏の終わりの匂いを運んできた。それはまるで、あの夏のそよ風のようだった。
「あの風はどこかで、君に吹いていればいいな」
そう、ひとりごちる。 止まっていた俺の時間が、未来に向かって、静かに動き出した。