『リバース・プロトコル』

目が覚めると、私は純白の光の中にいた。瞼の裏に焼き付くような、それでいてどこまでも穏やかな光。身体の感覚はなく、ただ意識だけが浮遊している。ここはどこだろう。最後の記憶は、無機質な病室の天井と、鳴り響く電子音。そして、すべてから解放されたいと願った、あの諦念。

《ミコト様。意識レベル、安定しました。再生施設<サンクチュアリ>へようこそ》

頭の中に、水滴が水面に落ちるような澄んだ声が響いた。声の主を探そうにも、視界は白一色に染まっている。

「……誰?」 《私は当施設所属のカウンセリングAI。あなたの第二の人生の始まりをサポートさせていただきます》

第二の人生。ああ、そうか。私は死んだのか。痛み止めを飲んでも消えなかった胸のズキズキも、今はもう感じない。空っぽになった器のように、心が静まり返っていた。

《ミコト様には、二つの道をご選択いただけます。一つは「リセット」。生前の記憶と人格を完全に消去し、全く新しい存在として生まれ変わるプロトコルです。過去の痛みや後悔から、完全に解放されます》

リセット。なんて甘美な響きだろう。私の周りでは、いくつもの光の粒子――他の魂だろうか――が、迷いなくその選択肢を選び、真っ白に浄化されて新しい世界へと旅立っていくのが見えた。痛みも苦しみも、何もかも忘れて「はじめから」を願えるのなら。

《もう一つは「リバース」。すべての記憶を保持したまま、新しい人工身体(アバター)で人生の「つづきから」を再開するプロトコルです》 「……そんなことをして、何の意味があるの」

思わず、乾いた声が漏れた。あの不幸の矢が突き刺さったままの心で、また歩き出せというのか。限界?上等。そうやって虚勢を張るのにも、もう疲れた。

《意味は、あなた自身が見出すものです。決断の前に、ご自身の記録(ログ)を閲覧されますか?》

AIの提案に、私は迷った。頷く代わりに、心の中で「お願い」と念じる。

次の瞬間、純白の世界に嵐が吹き荒れた。私の人生の、おびただしい記憶の断片。 ピアニストになる夢を諦めた日、審査員に投げかけられた辛辣な言葉。固めた殻で身を守って、大切な友人に心ない言葉をぶつけてしまった放課後。「貴方の幸せを分けてほしい」と願ったのに、その幸せの中に私の居場所はなかったと知った夜。自分よがりで、不器用で、どうしようもない私の記録。

黒と白のコントラストが強い空間。ミコトの魂(光の粒子が集まった人型)が、過去の辛い記憶の断片(割れたピアノの鍵盤、雨に濡れた楽譜、背を向ける人の影など)が嵐のように吹き荒れる中で、苦悩の表情を浮かべて頭を抱えている。

「もうやめて……!」

見たくなかった。忘れたかった。あの頃の私に言ってやりたい。バイバイ、幼き愛の日々。もう願うのは「はじめから」だけだと。

《これが、あなたですか》 AIの声は、感情を一切含まない。だからこそ、その問いは私の胸の奥深くに突き刺さった。

「そうよ。これが、勝てなくて、負けてばっかりだった私」 《勝てなくたっていい。負けない強さを持ちたい。あなたは、そう願っていたのではありませんか》

AIは、私の心の奥底の言葉を、静かに掬い上げた。

《人間は、しばしば自分を欺きます。ツァラトゥストラが言うように、記憶は『私がそうした』と言い、プライドが『私がそんなことをするはずがない』と抵抗する。そして、しまいにはプライドが勝つのです。ミコト様、あなたは本当に、あなたの人生の全てを否定しますか?》

AIの言葉に、記憶の嵐の中心で、ふと映像が止まった。 それは、コンクールに落ちてひとり泣いていた帰り道、自動販売機で温かいミルクティーを買って、何も言わずに隣に座ってくれた人の手の記憶。繋がりは消えるわけじゃないと、言葉ではなく、その温かさが教えてくれた。 そうだ。痛みだけじゃなかった。辛いだけじゃなかったんだ。 たまにがいい。たまにでいい。そう思える瞬間が、確かにあった。

荒れ狂う記憶の嵐が少し静まり、ミコトがそっと手を伸ばしている。その指先のすぐ近くに、誰かが差し出してくれた温かいミルクティーの缶の記憶だけが、優しい光を放って浮かんでいる。ミコトの表情は、まだ悲しみを湛えながらも、少しだけ穏やかさを取り戻している。

《ミコト様。魂の形は、経験のすべてによって作られます。喜びも、悲しみも、そのどちらが欠けても、今のあなたにはなり得ませんでした》

AIの言葉が、ゆっくりと染み込んでいく。 私は、私の人生から逃げようとしていた。不幸を誰かのせいにし、自分を憐れむことで、自分自身を愛することから目を背けていた。でも、違った。 この胸のズキズキも、妬ましさも、孤独も、全部。 誰にも明け渡すことのできない、私だけのものだ。だとしたら。

《最終選択の時です。ミコト様、あなたは生まれ変わりますか? それとも――》

「決めたわ」 私は、真っ直ぐに前を向いて宣言した。

「私を愛せるのは、私だけだから」

笑える日はきっと来る。そう信じられなかった過去も、抱きしめて進む。

「生まれ変わるなら?――また、私だね」

その言葉は、呪文になった。ケセラセラ。なるようになる。 私の答えを聞き届けたAIが、静かに告げる。

《プロトコル承認。リバース・シークエンスを開始します》

ファンファーレが鳴り響いた気がした。それは、悲劇の終わりと、喜劇的な「つづきから」を告げる音。

光が収束し、新しい身体の感覚が戻ってくる。指先を握り、開く。ゆっくりと息を吸い込むと、清浄な空気が肺を満たす。瞼を開くと、そこにはカプセルのガラス越しに広がる、朝焼けに染まる未来都市の摩天楼が見えた。

バイバイ、無頓着な愛の日々。 バイバイ、空っぽだった器にヒビが入っていた私。

私は、ゆっくりとカプセルから一歩を踏み出した。ガラスに映る自分と目が合う。それは紛れもなく、私の魂の色をしていた。

新しい身体で再生施設の大きな窓辺に立つミコトの、希望に満ちた横顔のアップ。窓ガラスには彼女の姿が映っており、その瞳は朝焼けに染まる未来都市を真っ直ぐに見つめている。微かに笑みを浮かべた口元が、彼女の決意の強さを物語っている。

大人になんかなるもんじゃない。そう嘯(うそぶ)きながら、昨日より少しだけ強くなった心で、明日への扉を開ける。

ケセラセラ。私の人生は、ここからが本番だ。

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