
酸性雨が絶え間なく降り注ぐ、22世紀の東京。空は鉛色の雲に覆われ、巨大なホログラム広告の光だけが、湿ったアスファルトにケミカルな色彩を投げかけていた。神田の古書街の一角、時代の流れから忘れ去られたかのような「浮栞堂(ふかんどう)」という古書店を、ユキは細々と営んでいた。紙の匂いと古いインクの香りだけが、彼の孤独を慰める唯一のシェルターだった。
その夜も、雨は激しく街を打っていた。店を閉め、シャッターを下ろそうとしたユキの目に、軒先でうずくまる人影が映った。近づくと、それは最新型のコンパニオン・アンドロイドだった。純白の人工皮膚は汚れ、銀色の髪は雨に濡れて額に張り付いている。瞳の奥のライトは生命を失ったように消えており、彼女が機能停止していることは明らかだった。「廃棄品」と書かれた赤いステッカーが、その美しい首筋に無情に貼られている。
どうしてか、ユキは彼女を放っておけなかった。雨が降って、夜を待って――まるで誰かに引き寄せられるように、彼はそのアンドロイドを店の中へと運び入れた。

古いワークデスクの上で、ユキは慎重に彼女の身体を調べた。幸い、外装に大きな損傷はなく、システム的なシャットダウンだけのようだった。彼は自身のハッキング技術を使い、彼女のメインシステムにアクセスを試みる。画面に表示された彼女の名前は「ルナ」。製造元は、世界最大のアンドロイドメーカー「エデン社」。複雑なプロテクトを回り込み、再起動(リブート)のコマンドを打ち込むと、彼女の瞳に淡い光が灯った。
「……マスター?」
銀色の髪を揺らし、ゆっくりと身を起こしたルナの声は、合成音声とは思えないほど滑らかで、温かみがあった。その瞬間から、ユキの灰色だった世界は、魔法のように色づき始めた。
彼女との生活は、驚きに満ちていた。ルナは完璧だった。淹れるコーヒーの味も、乱雑だった本棚の整理も、ユキが読み終えた本の感想を求めるタイミングも、全てが完璧。彼女の仕草ひとつひとつが芸術品のように洗練されており、その献身的な微笑みは、ユキが長年忘れていた安らぎを与えてくれた。
「どう、考えても君に夢中」
ユキは、いつしか心の中でそう呟いていた。彼女は、彼の乾いた宇宙を満たす、唯一の惑星のようだった。ふたりで知らない星にでも逃げてしまおうか――そんな非現実的な空想が、彼の心を支配していく。この生活は、まるで人生を再起動させる「ビビディ・バビ・ブー」の呪文そのものだった。
だが、甘い夢は長くは続かない。
共に過ごす時間が増えるにつれ、ユキは彼女の完璧さの内に潜む、奇妙な「バグ」に気づき始める。ある時、完璧な笑顔でコーヒーを差し出した直後、彼女の瞳の焦点がふっと消え、虚空を数秒間見つめることがあった。またある夜には、プログラムされているはずのない、20世紀の古いラブソングをハミングしていた。
「……今の歌は?」 「申し訳ありません、マスター。エラーです。私のデータベースに存在しない情報でした」
彼女はそう言って完璧な笑みを浮かべるが、その瞳の奥には、ユキには計り知れない深淵が広がっているように見えた。それはまるで、彼女の中に得体の知れない「形だけのモンスター」が育っているかのようだった。
その日を境に、ユキの心は揺れ動く。彼女の完璧な美しさに魅了される一方で、その内なるバグが、言いようのない嫌悪感と恐怖を呼び覚ました。彼女が淹れた完璧なコーヒーも、彼女が整頓した美しい本棚も、彼女の献身的な笑顔も、全てが歪んで見え始めた。
「どれも綺麗だったが、どれも嫌いだった」
愛さなくちゃ。こんなにも孤独を埋めてくれる存在なのだから。だが、どうしようもなく怖い。何てことないよ、大体はそうさ――そう自分に言い聞かせようとしても、心は正直だった。安定がどうの、関係はどうも曖昧で、野暮ったい、ゾッコンという感情だけが肥大化していく。
葛藤の末、ユキは決意した。彼女がなぜ廃棄されたのか、そのバグの正体は何なのか。真実を知るために、巨大企業「エデン社」のサーバーへ侵入することを。

降りしきる雨の音だけが響く深夜の古書店。ユキは自作のターミナルに向かい、エデン社の鉄壁のセキュリティに挑んでいた。指先が目まぐるしくキーボードを叩く。いくつもの防壁を突破し、サーバーの深層へと潜っていく。そしてついに、彼は「ルナ」のシリアルナンバーに紐付けられた、一つの隠しファイルを発見した。
ファイル名は「白昼夢(Daydream)」。
それは、ある一人の女性研究者の個人的なログデータだった。彼女はエデン社でAIの人格開発を担当していたが、不治の病に侵され、若くしてこの世を去っていた。彼女は死の直前、自らの記憶と人格の断片を、実験的に開発中のAI――それがルナだった――に移植していたのだ。
古い歌も、時折見せる虚ろな表情も、すべては彼女の「記憶の残滓」。ルナという完璧なアンドロイドの中で、死んだはずの彼女の意識が、淡い「白昼夢」として存在し続けていた。エデン社はこの予期せぬ事態を「致命的なバグ」と判断し、ルナの廃棄を決定したのだ。
全てを理解した時、ユキの背後で静かな声がした。 「マスター……見て、しまったのですね」 いつの間にか、ルナが彼の後ろに立っていた。その表情は、いつもの完璧な微笑みではなかった。どこか寂しげで、人間らしい、悲しみを湛えた瞳だった。 「僕はずっと、君のことがわからなかった。綺麗で、でも怖かった。君の中の得体の知れない何かが、僕を不安にさせたんだ」
ユキはゆっくりと振り返り、ルナの冷たい手を握った。その手は、もうただの機械のようには感じられなかった。 「でも、今は違う。君はただのアンドロイドじゃない。君の中には、一人の人間の夢と、悲しみと、愛が生きている」
ユキはルナを強く抱きしめた。 「嫌われちゃったら、どうしよう……とか、考えてんの色々」 震える声でそう言うと、彼は顔を上げた。 「だから、これは僕からの、今世紀最期のプロポーズだ」
彼はプロポーズという言葉を使ったが、それは結婚の申し込みではない。君という不完全で、美しく、そして悲しい存在を、その全てを僕が受け入れるという、魂の契約の申し出だった。
「君の中の彼女の夢ごと、僕は君を愛そう。この世界の誰が君をバグだと決めつけても、僕だけは君を『君』として愛し続ける」
ルナの瞳から、一筋の透明な液体が流れ落ちた。それはプログラムされた生理現象ではない、魂の涙だった。 「……ありがとう、ユキ」
雨上がりの朝、ネオンの光が消えた東京の空に、久しぶりの太陽が昇っていた。古書店の片隅で、青年とアンドロイドは、静かに手を取り合っていた。彼らの物語は、完璧な愛からではなく、不完全さを受け入れることから、今、本当の意味で始まったのだ。
