

都市管理局の白い壁は、カイの日常そのものだった。光も音も、生体反応も、すべてが最適化され、許容範囲(ノーマライズ)を超えないよう管理されている。彼の時間は、数年前に起きた「事故」以来、厳重なリミッターによって停止させられていた。
その「事故」とは、テロリスト鎮圧任務中の「感情過多(エモーショナル・オーバーロード)」だった。仲間を庇おうとした一瞬の激情——恐怖と怒りのスパイク——が判断を鈍らせ、結果として任務は失敗、彼自身も重傷を負った。その「いつかの恋」ならぬ「いつかの熱情」の「後遺症」は、臆病というよりは、完璧な無感動として彼に再インストールされた。彼は自ら最強のリミッター適用を望んだ。二度と、非効率な感情で道を誤らないために。
その静止軌道上に、予測不能なノイズが割り込んできたのは一週間前のことだ。 「対象名:リノ。セクター7、旧市街居住。非合法感情表現、及び旧時代アーティファクト復元の疑い」 上司の合成音声が、リノのファイルをカイの網膜に投影した。
カイの任務は、ステルスドローンによる24時間監視。リノのアトリエは、埃っぽいアナログ機材と、禁止されているはずの強烈な色彩で溢れていた。彼女は、都市が「精神汚染のリスク」として排除した「絵画」を復元していた。
最初、カイは彼女の非効率性を理解できなかった。だが、リノはこちらの監視に気づいているようだった。時折、彼女は作業の手を止め、隠されたドローンのレンズを——まるでアクリルの壁の向こうにいるカイの存在を正確に見抜いているかのように——眩しいくらいに真っ直ぐな瞳で見つめてきた。
その視線に射抜かれるたび、カイの内部モニターに微弱なエラーログが記録された。 『警告:生体認証、軽度な体温上昇。冷却ファン作動』 『警告:思考ルーチン、非効率な反芻(はんすう)を検出。対象“リノ”への関連思考が規定値を30%超過』
止まっていた針が、軋む音を立てて動き出す感覚。 空いた心、というよりは、無菌処理されていた彼のシステムに、リノという名のプログラムがそっと舞い込んだ。それは、管理された都市の空気とは異なる、予測不能なざわめきを孕んだ「そよ風」のようだった。 (まるで、) 彼の思考に、データベースにない比喩が浮かぶ。 (このまま揺さぶられていたいな) 危険な兆候だった。管理局の教義では、感情はバグであり、病だ。

溢れ落ちた古いデータライブラリの残骸のように。カイの思考回路も、リノへと向かって制御不能に漂い始める。宙に舞って、ゆらゆらと。 監視中、彼女が独り言のように呟く言葉を、ドローンの高性能マイクが拾った。 「色は、嘘をつかないから。嬉しい時は暖かくて、悲しい時は冷たい。ただ、そこにあるだけ。…ねえ、あなたもそう思わない?」 「あなた」とは、ドローンの向こうのカイのことだ。 彼は息を詰めた。返答は許されない。だが、システムは彼の沈黙とは裏腹に、リノの言葉を重要データとしてアーカイブしていた。
(彼女の瞳に、僕はどんな風に映っているのだろう?) いや、映るはずがない。僕は無機質な監視者だ。 なのに、思考は「ぐるぐる巡ってる」。
任務外の時間。カイは自宅のターミナルで、違法にリノのアーカイブ映像を再生するようになっていた。彼女が絵具を混ぜる真剣な横顔。失敗して鼻に色をつけ、無邪気に笑う顔。 曖昧な心にそっと芽生え始めるこの異常(フィーリング)に、カイは揺れた。 (このまま身を任せてさ、飛び込んでみたのなら) どこへ? 監視官が、監視対象の元へ? 破滅的なエラーだ。
ある夜、リノが旧市街の危険な路地を一人で帰宅していた。モニターには、彼女の後をつける不審な二つの人影が映る。管理局の規定では、監視対象が一般犯罪に巻き込まれても介入は許可されない。 だが、カイは指が勝手に動くのを感じた。 彼は任務外のドローン(パトロール用)をハッキングし、人影の足元に威嚇の警告音を鳴り響かせた。驚いて逃げていく人影。何が起きたか分からず、怯えたように空を見上げるリノ。 カイは、自身の冷却ファンが最大出力で回転する音を聞いていた。これは、規定違反だ。
「彼女が今、何をして、何処で誰と笑っているんだろう」 翌日、リノが旧市街のカフェで、古い知人らしき男と楽しそうに話している映像が流れた。男がリノの髪に触れようとした瞬間、カイは無意識にコンソールの拳を握りしめていた。生体モニターが『警告:攻撃性の高まり』という、数年ぶりに見るアラートを発する。
美しいものを見ると、知らせたくなったりして——。 リノが描き上げた夕焼けの絵を見たとき、カイは無意識に、自分が知る中で最も美しい、管理局の極秘データバンクにある「E-7宇宙ステーションから見た、大気圏突入時のオーロラ」のシミュレーションデータを彼女に転送しそうになり、指を止めた。
もどかしくなるこの気持ちは、ah。 システムが定義できない、強烈なバグ。後遺症の再発だ。カイは自己診断プログラムを起動するが、「異常なし」と表示されるばかり。ならば、この胸の痛みは何だ。
「恋に落ちることはきっと、もっと簡単だっていいはずだ」 リノが復元していた古い詩の一節が、監視ドローンの集音マイクに拾われた。 その瞬間、カイの中で何かが弾けた。 光った想いをぎゅっと抱きしめるように、彼はコンソールを叩いた。
その時、管理局の中央システムからカイ専用回線に緊急アラートが割り込んだ。 『対象“リノ”の感情汚染指数、危険レベル4に到達。監視官“カイ”の生体同期率に異常を検知。これより、対象“リノ”の強制拘束及び感情調整(アフェクト・ワイプ)を実行する。特殊部隊が5分後にアトリエに突入する』
ダメだ。彼女の色彩を、彼女の感情を、無機質な白に塗り潰されてたまるか。 カイはセキュリティロックを無視し、自身のメインコンソールにアクセスした。
リミッターの強制解除。 『警告! 致命的なシステム負荷! 感情過多(オーバーロード)の危険!』 激しい警報音と共に、押さえ込まれていた過去の熱情と、リノによって芽生えた新しい感覚が奔流となってカイを貫いた。息が詰まるほどの痛みと、すべてを塗り替えるような歓喜が同時に押し寄せる。
今なら。 彼女が吹かせた、感情という名の風に乗って。 確かな一歩を。
カイは監視室を飛び出した。管理局の廊下を全力で疾走し、緊急用リフトでセクター7へ飛ぶ。特殊部隊の到着より、早く。
リノのアトリエのドアを、彼は生身の手で叩き、壊すように開けた。

「だ、誰…?」 ドアが開き、絵筆を持ったまま驚くリノが立つ。 ドローンのレンズ越しではない、本物の「真っ直ぐな瞳」。 外からは、特殊部隊の接近を告げるサイレンの音が迫っている。 カイは、リミッター解除の負荷で荒い息をつきながら、エラーコードでは表現できない言葉を、生まれて初めて自分の声で紡いだ。
「逃げろ、リノ。彼らが、君を…消しに来る」 「あなた…監視していた人でしょ? なぜ…」 カイは彼女の手首を掴んだ。生身の人間の、温かい肌。 「理由は、まだ、システムが理解できない。だが、行かせない」 彼は、この感情の名前を、古い詩から学んでいた。 「『君が好きだ』」 その言葉は、カイ自身にとっても、まるで異国の響きのように新鮮だった。リノは目を見開いたが、彼の瞳に宿ったのが「バグ」ではなく「本物の熱」であることを見抜いたようだった。

