雨が古い街の石畳を濡らし、瓦屋根を叩く音だけが世界を満たしていた。街灯の滲んだ光が頼りない路地の奥に、アンティーク時計店「時詠み堂」は、まるで忘れられた時間そのもののようにひっそりと佇んでいる。
店内に一歩足を踏み入れると、大小様々な時計たちが奏でる不揃いな秒針の音が、優しいノイズとなって耳を包む。壁一面の古時計、ガラスケースに眠る腕時計、そして天井から吊るされた振り子時計。そのすべてが、誰かの失われた時間をその身に宿している。 店主の青年・刻也(ときや)は、カウンターの隅で小さな懐中時計をそっと手に取り、目を閉じた。チクタク、チクタク…規則正しいリズムの奥から、持ち主だった老婦人の、初恋の甘酸っぱい記憶が微かに聞こえてくる。彼は壊れた時計の“声”を聞き、持ち主が失くした「時間」を修理する、不思議な力を持っていた。
カラン、とドアベルが寂しげな音を立てた。 雨の匂いと共に現れたのは、ひとりの女性だった。濡れたトレンチコートの襟を立て、俯きがちに佇む彼女の瞳は、どこか遠くを見つめているようで、この世界の何ものも映してはいないように見えた。
「いらっしゃいませ」 刻也の静かな声に、女性ははっと我に返ったように顔を上げた。 「あの…時計の、修理を…」
彼女――茜(あかね)が震える手でカウンターに置いたのは、銀細工の美しい懐中時計だった。しかし、その繊細な針は固く止まり、ガラスの表面には細かな傷が無数についている。まるで、持ち主の心を映すかのように。
「拝見します」 刻也がその時計に指を触れた瞬間、奔流のように、激しい感情が流れ込んできた。
出会いと別れ。すり減っていく心。かき分けた記憶の先に滲む、茜色の夕焼け。 『あなたを知らない世界の方がずっとマシだった』 そう言って無理に笑う、若い男女の姿。すれ違う日々の中で、本音を隠し、互いに気づかないふりをした痛みが、刻也自身の胸を締め付けた。
「この時計は…」刻也が顔を上げると、茜は泣き出しそうな顔で彼を見つめていた。 「彼との、唯一の…形見なんです。私が素直になれなかったせいで、終わってしまった恋の…」 声が、雨音に溶けて消えそうになる。 「もう一度、動くことはありますか?」
その問いは、単なる修理の依頼ではなかった。それは、叶うはずのない願い。過去へ戻り、やり直したいという、悲痛な魂の叫びだった。 刻也は、時計から伝わる茜の絶望的なまでの後悔の深さを知る。彼女が本当に取り戻したいのは、機械仕掛けの針の動きではない。伝えられなかった言葉を届けられるはずだった、あの日の、あの瞬間の時間そのものなのだ。
刻’也の心に、ひとつの覚悟が芽生える。 彼の一族に代々受け継がれてきた、禁断の力。持ち主の人生と引き換えに、一度だけ時計の時間を現実世界に反映させる――すなわち、過去を書き換える力。その代償は、術者の「未来の時間」そのもの。
「動きますよ」 刻也は、静かに、しかしはっきりと告げた。 「ただし、そのためには…あなたの最も大切な思い出を、この時計に預けていただく必要があります」 それは、力を発動させるための儀式であり、嘘だった。本当の代償は、すべて自分ひとりが背負う。彼女をこの苦しみから解き放てるのなら、それでいい。
茜は迷いの末、涙を堪えながらこくりと頷いた。彼と初めて出会った日のこと、二人で見た茜色の空のこと、そのすべてを語り、時計に記憶を託した。
すべての記憶を受け取った刻也は、店の奥にある最も古い柱時計の前に立つ。そして、茜の懐中時計を振り子にそっと重ねた。 「どうか、幸せに」 彼がそう呟き、柱時計の針を逆さに回した瞬間――。
世界から、音が消えた。 店中の時計の針が一斉に猛烈な勢いで逆回転を始め、窓の外の雨粒が空へと昇っていく。刻也の身体は足元から徐々に透き通り、光の粒子となって霧散していく。彼は、自らの存在と引き換えに、茜の時間旅行を可能にしたのだ。
***
はっと茜が気づくと、彼女は見慣れた街の交差点に立っていた。空は、燃えるような茜色。向かいの歩道には、懐かしい彼が、少し寂しそうな顔でこちらを見ている。あの日、彼女が意地を張って、別れの言葉を背中で聞いた、運命の分岐点。 涙が溢れて止まらない。でも、これは悲しみの涙ではなかった。
「待って!」 茜は、信号が変わるのももどかしく、彼に向かって走り出した。今度こそ、素直になるために。「大好き」と「ごめんなさい」を、ちゃんと伝えるために。 彼女の腕の中で、あの日と同じように時を刻み始めた懐中時計の温もりだけが、誰かが起こしてくれた奇跡の証だった。
古い街の片隅から、「時詠み堂」の姿は消えていた。まるで、初めから何もなかったかのように。ただ、新しく時を歩み始めた恋人たちを、空の茜色だけがいつまでも見守っていた。