第一章
富山唯継(とみやまただつぐ)が、その妻・鴫沢宮(しぎさわみや)を娶(めと)りてより、早や二年(ふたとせ)の歳月が流れようとしていた。芝(しば)に構えた新宅は西洋建築の粋を集め、夜毎(よごと)に開かれる饗宴の灯りは、さながら不夜城の如く煌々(こうこう)と輝き、社交界の人士は誰もがこの若き富豪の栄華を羨望の眼差しで見上げた。
妻たる宮は、まことに美しかった。鹿鳴館(ろくめいかん)の夜会にても、その美貌は泰西(たいせい)の貴婦人たちをさえ凌駕(りょうが)し、唯継が誂(あつら)えたる最新の仏蘭西(フランス)製ドレスを纏(まと)えば、あたかも美術館から抜け出した女神像かと見紛うほどであった。唯継は、自らが選んだこの至宝を誇示するかのように、夜ごと彼女を伴い、華やかな場所へと赴いた。人々はささやき合う。「富山氏は実に幸福な男だ。金も、そして美も、すべてを手に入れた」と。
されど、唯継のみが知っていた。その幸福が、いかに脆く、冷たい玻璃(はり)の上に築かれたものであるかを。
ある晩のことである。例の如く催された晩餐会が果て、客人が皆引き取った後の、だだ広い食卓でのことであった。銀の燭台に残る蝋(ろう)の香りが微かに漂う中、唯継は琥珀色(こはくいろ)の葡萄酒(ワイン)をグラスに満たし、黙してそれを呷(あお)っていた。目の前には、豪奢なドレスのまま、寸分も姿勢を崩さぬ宮が座している。真珠の首飾りが、彼女の白き頸(うなじ)で冷たい光を放っていた。
「宮」
唯継が呼びかけると、彼女はゆっくりと顔を上げた。その黒曜石のごとき瞳には、何の感情も映ってはいなかった。まるで、精巧に作られた人形が、主の言葉に反応したかのように。
「今宵の会は楽しんだか」
「はい、あなた様のおかげをもちまして、皆様ご陽気でいらっしゃいましたわ」
その声は鈴を振るように美しかったが、唯継の心には少しも響かなかった。宮の言葉は常に型通りで、そこには彼女自身の心の彩りが一片も含まれていないのを、彼はとうに知っていた。
「そうか。――お前は、美しいな」
唯継は、自嘲するように呟いた。その言葉に、宮の表情が僅かに動いた。だが、それは喜びではなかった。むしろ、痛みに耐えるかのような、かすかな翳(かげ)りであった。
「もったいないお言葉でございます」
彼女は再び視線を伏せ、テーブルクロスの一点を見つめた。その指が、膝の上で固く組まれているのを唯継は見逃さなかった。あの指には、かつて彼が贈った大粒のダイヤモンドの指輪が嵌められている。間貫一という貧しい書生から彼女を奪い、自らのものとする証として贈った、あの指輪が。
唯継はグラスを置き、静かに立ち上がった。そして、宮の背後に回り、その肩にそっと手を置いた。宮の体が、僅かにこわばるのが掌(てのひら)に伝わってきた。
「宮、お前は本当に、わしの妻なのだろうか」
絞り出すような唯継の声に、宮は答えなかった。ただ、彼女の瞳に映る燭台の炎が、ゆらりと揺れた。その炎の奥に、唯継には見えていた。決して自分のものではない、遠い日の面影が。貧しくとも情熱に燃えていたであろう、一人の男の姿が。
その夜、唯継は自らの書斎で、宮が屋敷から持ち込んだ唯一の古い行李(こうり)を密かに開けた。中には、古びた書物と、一枚の写真が収められていた。写真には、学帽を被った精悍な顔つきの青年――間貫一が、宮の隣で誇らしげに微笑んでいた。
この写真こそが、宮の心のすべてであった。そして、ダイヤモンドと莫大な財産をもってしても、決して手に入れることのできない、富山唯継の永遠の敗北の証だったのである。
第二章
季節は移ろい、庭の梅が散り、桜が咲き、やがて葉桜の緑が目に沁みる頃となっても、富山家の食卓の空気は変わることがなかった。唯継は、宮の心を金で覆い尽くさんと、狂ったように贈り物を続けた。英国(イギリス)から取り寄せた最新の流行(はやり)のドレス、印度(インド)の王族が所有していたという翡翠(ひすい)の首飾り、名の知れた画家に描かせた彼女の肖像画。屋敷はさながら美術館の如き様相を呈し、宮はその中心に飾られた最も美しい芸術品であった。
しかし、宮は変わらなかった。唯継が何を贈ろうとも、彼女はただ「ありがとうございます」と静かに微笑むだけだった。その微笑みは、感謝というよりは、むしろ諦めに近い色を帯びていることを、唯継は痛いほど感じていた。彼女は、唯継が与えるすべてのものを、自らが貫一を裏切ったことへの罰として、甘んじて受け入れているかのようであった。
唯継の苛立ちは募る一方であった。彼は銀行頭取としての地位を利用し、ひそかに間貫一の身辺を探らせた。やがて、もたらされた報告は、唯継の心を暗い喜びに満たした。貫一は大学を中退し、生活に困窮した末、今では鰐淵(わにぶち)という高利貸しの手代に成り下がっているという。かつての聡明な学徒の面影はなく、金の取り立てのためなら非情な手段も厭わぬ、人非人(にんぴにん)に成り果てていると。
「宮、聞いているか」
ある雪の夜、暖炉の炎が赤々と燃える客間で、唯継はおもむろに切り出した。
「お前がかつて思いを寄せた男のことだ。間貫一は、今や見る影もない。人の生き血をすする高利貸しの手先となり、世間から唾棄(だき)される存在になったそうだ」
唯継は、宮が驚き、悲しみ、そしてかつての恋人に幻滅することを期待していた。その醜聞(スキャンダル)が、彼女の心に残る最後の純粋な思い出さえも汚し、貫一という存在を完全に過去のものとして葬り去ってくれることを。
しかし、宮の反応は彼の予想を裏切った。彼女はしばらくの間、虚空を見つめていたが、やがてその美しい瞳から一筋の涙が静かに流れ落ちた。
「……あの方を、そのようにしたのは、わたくしです」
その声は、か細く、しかし凛とした響きを持っていた。それは、罪を認める者の告白であり、同時に、貫一への変わらぬ想いの証でもあった。
唯継は言葉を失った。彼は嫉妬の炎で、貫一という偶像を焼き尽くそうとした。だが、その炎はかえって、宮の心の中で貫一への想いを、悲劇的な愛としてさらに神聖化させてしまったのだ。
その夜、唯継は再び宮の姿を探した。屋敷のどこにも彼女の姿はなく、ただ彼女の寝室の窓が、雪の降る暗い外に向かって開け放たれているだけだった。唯継は、言い知れぬ不安に駆られ、屋敷を飛び出した。俥(くるま)を飛ばし、彼が向かった先は、かつて貫一が住んでいたという、神田のうらぶれた下宿の界隈(かいわい)であった。
雪明りの中、唯継は見た。古い下宿屋の跡地に、ただ一人佇む宮の姿を。彼女は、もはや存在しない家の柱を探すかのように、虚空に手をさまよわせ、そして静かに崩れ落ち、雪の上にその身を横たえるのだった。
唯継は、近づくことができなかった。それは、金力という鎧をまとった王が、その力の及ばぬ聖域を前に、ただ立ち尽くす姿であった。彼の世界は、音を立てて崩れ始めていた。
第三章
雪は夜半過ぎに止んだ。しかし、富山の屋敷に宮が戻ることはなかった。唯継が茫然自失のまま夜を明かした頃、一人の下女が、青ざめた顔で彼の前に小さな包みを差し出した。それは宮が愛用していた絹のハンカチで、中にはあのダイヤモンドの指輪が、まるで涙の粒のように冷たく光っていた。
「奥様は、これだけをそっとお部屋のテーブルに……」
その言葉が、宮の決別を告げる無言の便りであった。唯継はよろめき、近くの椅子に崩れ落ちた。金で手に入れたはずの妻は、金で与えた最初の証を返すことで、その契約の終わりを告げたのだ。
それからの日々、唯継は抜け殻のようであった。あれほどまでに情熱を傾けた銀行の仕事も、夜ごと開いていた華やかな宴も、彼の目にはすべて色褪せた砂の城のように映った。人々は彼の変化を訝しみ、妻に逃げられた男と陰で嘲笑した。だが、唯継の耳には、もはや世間の雑音は届かなかった。彼の心は、がらんとした屋敷と同じく、ただ静まり返っていた。
彼は自問した。一体、何が足りなかったのか。富か、名声か、それとも若さか。どれも間貫一という男に劣るものはなかったはずだ。いや、唯一劣るものがあった。それは、宮の心を、金という尺度でしか測れなかった己自身の愚かさであった。
季節が再び巡り、また冬が訪れた。街にはちらほらと雪が舞い始めていた。その日、唯継は誰に言うともなく屋敷を出ると、無意識に俥を拾い、こう告げていた。
「番町へ……」
俥は雪の中を静かに進み、やがて鰐淵という高利貸しの事務所が入る建物の前で止まった。間貫一が、今ここにいるはずだった。唯継は俥の窓から、古びた建物をじっと見つめた。貫一に会って、何を言うのか。詰るのか、詫びるのか、それともただ一目見るだけか。彼自身にも分からなかった。
しかし、彼はついに俥から降りることはなかった。窓越しに見える事務所の灯りは、彼が生きる華やかな世界とはあまりに懸け離れていた。その灯りの下で、貫一と宮がもし再会していたとしても、それはもはや自分の与り知らぬことなのだと、唯継は悟った。彼は静かに俥を帰らせた。
芝の新宅に戻った唯継は、書斎の机の引き出しから、あのダイヤモンドの指輪を取り出した。七色の光を放つその石は、かつて彼の勝利の象徴であった。だが今は、その輝きがひどく虚しく、そして冷たく感じられた。
窓の外では、雪がしんしんと降り積もり、世界の音をすべて吸い込んでいく。がらんとした豪邸に、唯継はただ一人。
彼は、その冷たい石を握りしめた。すると、彼の乾ききった瞳から、一筋の熱いものが静かに流れ落ちた。それは、富山唯継という男が、金で買えなかったもののために流す、生まれて初めての涙であった。
【完】