

町の記憶からこぼれ落ちたような、そんな場所にその神社はあった。石段には苔が生え、社殿の朱色は長年の雨風に晒されて、まるで過去の栄華を恥じるように色褪せている。賽銭箱に硬貨の落ちる音が響くのは、月に一度あるかないか。訪れるのは、道を間違えた旅人か、懐古趣味の老人くらいのものだった。
吾(われ)は、この社の神である。 とは言っても、もはやその神威は風前の灯火だ。人々の信仰という名の養分がなければ、神は存在を保てない。かつては五穀豊穣や家内安全を願う人々の声で賑わった境内も、今は静寂に包まれ、吾の輪郭は日に日に曖昧になっていく。まるで、水に溶けていく墨のように、世界との境界がぼやけていくのだ。消滅。それが、忘れられた神々に与えられた、唯一の救済であり、罰であった。
そんなある日、ひとりの青年が、この忘れられた場所に足を踏み入れた。 年の頃は二十代半ばだろうか。少し癖のある黒髪に、真面目そうな顔立ち。彼は戸惑ったように境内を見回すと、やがて意を決したように吾の祀られた本殿の前に立ち、深く頭を下げた。そして、震える声で祈りを捧げ始めたのだ。
「どうか…どうか、陽菜をお守りください」
陽菜。おそらくは、恋人の名だろう。彼の祈りは、切実だった。
「彼女は、まるで繊細な花のようです。少しの風にも揺れて、すぐに俯いてしまう。僕が水をあげなければ、愛を注がなければ、すぐに枯れてしまいそうで…怖いんです」
愛する花に水をあげるように。大切に、大切に。 愛する花が枯れないように、やさしさと厳しさをあげる。
青年の言葉は、乾ききった吾の心に、染み入る雫のようだった。何百年という時の中で、数えきれないほどの願いを聞いてきた。だが、これほどひたむきで、純粋な祈りは久しぶりだった。彼は自分のためではなく、ただ一人の女性のために、その心のすべてを捧げている。
青年の名は湊(みなと)といった。彼はそれから毎日、同じ時刻に神社を訪れるようになった。高価な供物も、大層な賽銭もない。ただ、静かに手を合わせ、陽菜という女性の無事を祈るだけだった。
吾は、残り少ない力を使って、彼の姿を追うことにした。 湊が向かうのは、町外れにある小さなアパートの一室だった。ドアを開けると、窓辺の椅子に座る一人の女性がいた。彼女が、陽菜なのだろう。陽の光を浴びているはずなのに、その表情には影が落ち、まるで精巧な人形のように生気が感じられなかった。
「陽菜、ただいま。今日は天気がいいから、少し散歩しないか?」
湊は、まるでガラス細工に触れるかのように、優しく声をかける。しかし、陽菜は虚空を見つめたまま、何の反応も示さない。心が、どこか遠い場所へ行ってしまっているかのようだった。
それでも湊は諦めなかった。彼は毎日、陽菜に話しかけ、食事を作り、部屋を掃除した。彼女が笑わなくとも、返事をしなくとも、ただひたすらに、その傍にあり続けた。それはまるで、咲くことを忘れた花に、来る日も来る日も水をやり続ける庭師のようだった。
ある夜、湊は眠る陽菜の寝顔を見ながら、静かに涙を流していた。 「どうして、お前はそんなに甘えないんだ。もっと頼ってくれていいのに。まわりの見る目なんか気にせず、自分の正しいと思う道を進めばいいんだ。泣き顔なんか見せないで、素敵な笑顔を見せてくれよ…」
その独白は、祈りとなって吾の元へと届いた。 そうだ。おひさまはいつもあなたの上で見守っているよ。
吾は、衝動的に動いていた。なけなしの神威をかき集め、雲の切れ間をこじ開ける。銀色の月光が、アパートの窓から差し込み、二人の眠る部屋をそっと照らし出した。

心配なんかいらない。歩いていこう。 吾は、湊の心にそう囁きかけた。届くはずのない、神の声。だが、湊はふと顔を上げ、窓の外の月を見上げた。その瞳に、一瞬だけ強い光が宿ったように見えた。
季節は巡り、木々が色づき始めた頃、湊の祈りに変化が訪れた。彼は、追い詰められていた。陽菜の状態は一向に上向かず、彼の心もまた、少しずつ摩耗していたのだ。
「神様…本当にいるのなら、力を貸してください。俺は、もう…」
彼の声は、か細く震えていた。 見捨てることなど、できなかった。吾は、この青年と、彼が愛する女性に、深く心を寄せてしまっていた。彼らの物語の結末を、この目で見届けたいと、強く願ってしまっていた。
その日の午後、湊は陽菜を連れて、吾の神社を訪れた。 「ここだよ。俺が毎日、お前のことを祈りに来ている場所」 陽菜は、何も言わず、ただぼんやりと古びた鳥居を見上げている。
湊は、陽菜の手をそっと引くと、吾の前に二人で並んで立った。そして、これまでで一番大きな声で、天に届くかのように叫んだ。
「神様はまだ死んでない! だから、見捨てられてなんかないんだ! 心配なんかいらない、一緒に歩いていこう!」
それは、陽菜に言い聞かせているようで、自分自身を鼓舞しているようで、そして、忘れ去られた吾という存在を、力強く肯定する言葉だった。 その瞬間、吾の身体の奥深くで、何かが燃え上がるのを感じた。失われ、冷え切っていたはずの神威が、彼の魂の叫びに共鳴し、最後の輝きを放とうとしていた。
吾は、持てる力のすべてを解き放った。 境内を吹き抜ける風が、ざわりと音を立てて木々を揺らす。色褪せていたはずの社殿が、夕陽を浴びて黄金色に輝き、散りゆく紅葉が、祝福するように二人の周りを舞った。
陽菜が、はっとしたように顔を上げた。その虚ろだった瞳が、舞い散る紅葉の鮮やかな赤を映している。彼女は、まるで長い眠りから覚めたかのように瞬きをすると、隣に立つ湊の顔を見つめた。
「…きれい」
それは、本当に、本当に小さな声だった。 だが、その一言は、湊にとって、そして吾にとって、何よりも力強い奇跡の言葉だった。湊の瞳から、大粒の涙がいくつもこぼれ落ちる。彼は、嗚咽を漏らしながら、陽菜の華奢な肩を抱きしめた。
「ああ…よかった…」
太陽の下で笑い、正直な心で、素直な言葉を交わす。 吾が望んだのは、そんなありふれた、しかし、かけがえのない光景だった。
夕闇が境内を包む頃、二人は手を取り合って、ゆっくりと石段を下りていった。その背中を見送りながら、吾の身体は、砂の城が崩れるように、静かに光の粒子となって霧散していくのを感じていた。
ああ、これで吾の役目も終わりか。 だが、不思議と悔いはなかった。 忘れられた神が、最後に起こしたささやかな奇跡。ひとりの人間のひたむきな愛が、神を神たらしめたのだ。
神様は、まだ死んでない。 湊がそう信じてくれる限り、吾はきっと、この場所に在り続けるのだろう。たとえその姿が見えずとも、声が聞こえずとも。愛する花に水を注ぐ、優しい誰かを見守る、名もなき風として。
