
街はいつも、鉛色の雲に覆われていた。人々はその雲を「後悔」と呼んだ。重く垂れこめた雲は、陽の光だけでなく、人々の胸に宿る”心の灯(ともしび)”の明るささえも奪っていく。誰もが胸に小さなランタンを宿し、そのか細い光だけを頼りに生きている、そんな街だった。
機械人形師、リオの朝はいつも同じだ。工房の錆びついた鉄のドアノブに手をかける。ひやりとした感触が、まだ動きたがらないブリキの身体にじわりと染みる。彼の心臓は、とうの昔に錆びつき、時折軋むような音を立てるだけだった。胸のランタンも、今はもう燃え殻が燻っているかのような、頼りない光しか放っていない。
「……また、同じ一日か」
独りごちて、彼はモノクロの工房に足を踏み入れる。埃とオイルの匂いが混じり合った空気。壁一面に掛けられた工具と、作りかけの機械の部品たちだけが、彼の世界のすべてだった。かつて彼が犯した過ちは、彼の胸の灯をほとんど消し去り、世界の色彩を奪った。以来、彼はこの裏通りで、壊れた機械たちと対話するようにして、息を潜めて生きていた。やり直せるなどとは思っていない。ただ、昨日と同じ誰もいない今日が、明日も続けばいい。そう思っていた。
その日も、空からは冷たい雨が降り続いていた。工房の窓を叩く雨音を聞きながら、リオは壊れたオルゴールのゼンマイを巻いていた。持ち主のいない、記憶の残骸のようなガラクタだ。その時、外からか細い泣き声が聞こえてきた。普段なら気にも留めない。この街で泣き声は、雨音と同じくらいありふれたものだからだ。だが、その声はなぜか、錆びついた彼の心臓のネジを微かに回した。
重い腰を上げ、ドアを開ける。路地裏の隅で、小さな少女がうずくまっていた。年の頃は七つか八つか。その胸にあるべきランタンの灯が、ない。空っぽの鳥籠のように、少女の胸は暗く、虚ろだった。
「どうした」 ぶっきらぼうな声しか出ない。少女はびくりと肩を震わせ、涙に濡れた顔を上げた。 「……カラスが」 しゃくりあげながら、少女は空を指さす。 「わたしの……灯を……」 見上げると、鉛色の雲の下を、黒い影が横切っていくのが見えた。その嘴(くちばし)に、小さな、しかし驚くほど温かく、澄んだ光が揺れている。まるで、陽だまりをそのまま固めたような、愛らしい光。 リオは息を呑んだ。あれが、彼女の”心の灯”。彼が失って久しい、純粋な光そのものだった。

「……なんて、可愛い灯だ」 無意識に、言葉が漏れた。 少女――ルナと名乗った――は、灯を奪われた衝撃と悲しみで、ただただ泣きじゃくるばかりだった。心の灯を失えば、人は次第に感情を忘れ、やがて動くことさえできなくなる。このままでは、この少女も色あせた機械のようになってしまうだろう。 ――昔の、自分のように。 リオの脳裏に、消し去ることのできない過去の光景が蘇る。彼が、誰かの大切な灯を、その手で……。 「……わかった。俺が取り返してやる」 気づけば、口が動いていた。自分でも驚くほど、確かな響きを持った声だった。ルナが、信じられないというように、大きな瞳でリオを見つめる。 「ほんと……?」 「ああ。機械人形師だからな。空を飛ぶものを作るくらい、造作もない」 それは、嘘だった。今の彼に、そんなものを作る気力など残っているはずがなかった。だが、少女の瞳に宿ったかすかな期待の光が、彼の錆びついた心臓に、カチリ、と小さな火花を散らした。
その日から、リオの工房は久しぶりに槌音と火花の光に満たされた。壁の設計図を剥がし、新しい図面を描く。埃をかぶっていた部品の山をかき分け、使えるものを探し出す。ブリキの板を叩き、伸ばし、翼の形に整えていく。 ルナは毎日、工房の隅でその様子をじっと見ていた。時折、小さな手で工具を手渡したり、冷えた水を差し出したりした。彼女がいるだけで、モノクロだった工房に、少しだけ温かな色が差すような気がした。
「なぜ、助けてくれるの?」 ある夜、ルナが尋ねた。リオは手を止め、自分の胸の、消えかけたランタンに目を落とす。 「……昔、守れなかった灯があった。君の灯は、それに少し似ている」 それ以上は語らなかった。だが、ルナにはそれで十分だったようだ。彼女は黙って頷き、リオの傍らで小さな寝息を立て始めた。その無防備な姿を守りたいと、リオは強く思った。それは、彼にとって何年ぶりかの、切実な願いだった。
何日も徹夜を重ね、ついに一羽の機械鳥が完成した。ゼンマイ仕掛けで羽ばたく、銀色の翼を持つブリキの鳥。操縦席は一人乗りで、とてもではないが安全とは言えない代物だ。だが、鉛色の雲の向こうへ行くには、これしかない。
「行ってくる」 リオはルナに短く告げ、機械鳥に乗り込んだ。ルナは何も言わず、ただリオの袖をぎゅっと握りしめた。その小さな手の温もりが、彼の背中を押した。
ギ、ギ、ギ、とゼンマイが軋む音を立て、ブリキの翼が空気を打つ。機械鳥はぎこちなく浮き上がり、雨上がりの空へと舞い上がった。眼下で、ルナがいつまでも手を振っていた。
高度を上げるにつれて、街を覆う”鉛色の後悔”の雲が眼前に迫る。冷たく、湿った空気が肌を刺す。雲の中に突入すると、視界は完全に奪われ、過去の過ちが幻覚となってリオを苛んだ。 『お前のせいだ』 『偽善者め』 『お前に何が守れる』 幻聴が頭に響き、錆びついた心臓が悲鳴を上げる。胸の灯が、今にも消えそうだ。 「うるさい!」 リオは叫んだ。 「俺はもう、逃げないと決めたんだ!」
強い意志が、幻を振り払う。彼は操縦桿を握りしめ、ただ上へ、上へと機体を導いた。 どれくらいの時間が経っただろうか。不意に、目の前が真っ青な光に満たされた。 雲を、抜けたのだ。 そこには、彼が忘れていた空の色が広がっていた。水色、と呼ぶにはあまりに深く、どこまでも澄み渡った世界。そして、その蒼穹を背景に、一羽のカラスが飛んでいた。その嘴には、ルナの”可愛い灯”が、以前にも増して輝いて見えた。
カラスは、侵入者に気づき、鋭い声で威嚇する。だが、リオはもう怯まなかった。機械鳥を巧みに操り、カラスとの距離を詰めていく。それは、力ずくの戦いではなかった。まるで、ダンスを踊るように、空中で二つの影が交錯する。リオの脳裏には、ルナの笑顔だけがあった。あの灯を、あの子の胸に返す。その一心だった。
長い追跡の末、カラスはついに根負けしたように、嘴から灯を離した。陽だまりのような光が、青い空の中をゆっくりと落ちていく。リオは機械鳥を急降下させ、その光を、壊れ物に触れるかのように、そっと両手で受け止めた。 温かい。 その温もりが、彼の錆びついた心臓を、じんわりと溶かしていくのを感じた。
工房に戻ったリオを、ルナは駆け寄って迎えた。 「おかえりなさい!」 リオは黙って、その小さな胸に、温かい灯を返してやった。ランタンに再び火が宿ると、ルナの顔にぱっと血の気が戻り、満面の笑みが花のように咲いた。その笑顔は、どんな光よりも眩しかった。
「ありがとう、リオ!」 ルナはリオに抱きついた。その時、リオは自分の胸のランタンが、確かに前よりも少しだけ明るく、温かく灯っていることに気づいた。そして、工房の窓から差し込む夕陽が、いつものモノクロではなく、ほんのりとオレンジ色を帯びて見えた。
鉛色の雲は、まだ街の上空に居座っている。彼の心臓の錆が、完全に消えたわけでもない。 だが、彼はもう一人ではなかった。守るべき”可愛い灯”がすぐそばにある。それだけで、世界は昨日までとは全く違って見えた。
リオは、工房の隅で自分を待っている壊れたオルゴールに目をやった。 「さて、と。あのオルゴールの修理を済ませてしまおうか」 その声は、自分でも驚くほど、穏やかに響いていた。錆びついたドアノブを開けて始まる明日が、ほんの少しだけ、待ち遠しく思えた。