
「なんだか最近、世の中がギスギスしていないか?」 「昔は『ビジネスはビジネス』で割り切れたのに、今はそうもいかない…」
社会人経験を積んでこられた40代の皆さまなら、そんな空気の変化を肌で感じているかもしれません。特に、新型コロナウイルスの流行や、世界各地で続く地政学的な緊張は、私たちが「当たり前」だと思っていた前提を大きく揺さぶりました。
その「当たり前」の代表格が、「グローバル化」です。
世界がフラットにつながり、国境を越えてモノやサービスが自由に行き交う。それが最も効率的で、合理的だと信じられてきました。しかし、その結果、私たちの生活に欠かせない「あるモノ」が、今や国家間の「新しい火種」となっているのです。
それが、半導体です。
新車の納車が1年以上待つのも、最新のゲーム機が手に入らないのも、元をたどれば半導体不足が原因でした。
今回深掘りするのは、**【ネクスペリア問題】**という、一見すると私たち日本人には馴染みの薄い、ヨーロッパでの企業買収をめぐるお話です。
「オランダの企業がイギリスの工場を買う話でしょ?」「自分には関係ないかな」
そう思われたかもしれません。ですが、ちょっとお待ちください。
この一件は、「半導体をめぐる見えない戦争」がすでに始まっていること、そして、私たちが信じた「グローバル化」の甘い夢が終わりを告げ、「経済」と「安全保障」が一体化するという、恐ろしくも厄介な新時代に突入したことを、痛烈に突きつける象徴的な出来事だったのです。
この記事では、なぜこの問題がそれほど重要なのか、そしてそれが巡り巡って、私たちの生活や日本の未来にどう直結しているのかを、専門用語を一切使わずに、じっくりと解き明かしていきます。
結論:もはや「ビジネス」と「安全保障」は切り離せない
いきなり結論から申し上げます。
この【ネクスペリア問題】が私たちに突きつけた、最も重要で、そして不都合な「核となる答え」とは、
「もはや、経済活動(ビジネス)と国家の安全保障は、切り離して考えることができない時代になった」
という、厳然たる事実です。
かつては「経済は経済、政治は政治」でした。企業は利益を追求し、国境を越えて最も効率的な場所で生産し、販売することが「善」とされてきました。
しかし、今は違います。 ある企業が「純粋なビジネス」として行った行動(例えば、外国の企業を買収すること)が、自国の安全を脅かす「安全保障上の脅威」として、国家から「待った」がかかる。
ネクスペリア問題は、まさにその典型例です。私たちは、そんな「効率」よりも「安全」が優先される、新しい世界のルールに直面しているのです。
理由1:半導体は「現代の石油」であり「国家の頭脳」だから
なぜ、たかが一企業の買収が、国家レベルの大問題に発展したのでしょうか。その最大の理由は、買収の対象が**「半導体」**という、とんでもなく重要な部品を作る工場だったからです。
皆さんもご存じの通り、半導体は「産業のコメ」と呼ばれてきました。ですが、現代においては、もはや「コメ」どころではありません。はっきり言って**「現代の石油」であり、「国家の頭脳」**そのものです。
私たちの手の中にあるスマートフォン、毎日乗る自動車(今や走るコンピュータです)、家庭のエアコン、会社のパソコン。それだけではありません。
銀行のATM、電力や水道といった社会インフラ、病院の医療機器、そして、空を飛ぶ戦闘機やミサイル。AI(人工知能)や5G(次世代通信)といった未来の技術も、すべて半導体がなければただの「箱」です。
もし、この半導体を他国に握られてしまったらどうなるでしょうか?
「言うことを聞かなければ、おたくの国には半導体を売りませんよ」
そう言われた瞬間、国の機能は停止し、経済は麻痺し、安全保障も立ち行かなくなります。まるで、中東から石油が来なくなったオイルショックの比ではありません。それがデジタル社会の「アキレス腱」なのです。
ネクスペリア問題で舞台となったイギリスの工場(ニューポート・ウェハー・ファブ)は、最先端の「スゴイ」半導体を作っていたわけではありませんでした。しかし、自動車や産業機器などに使われる、汎用性が高い(=ないと困る)半導体技術と生産能力を持っていました。
「最先端じゃないなら、いいじゃないか」とはならないのです。「ないと困るモノ」を、潜在的なライバル国に渡すわけにはいかない。それが国家の論理です。
理由2:「効率」から「安全」へ。世界のルールが変わったから
私たちが慣れ親しんだ「グローバル化」の時代、最も重要視された価値観は**「効率」**でした。
人件費の安い国で作り、技術のある国で設計し、資源の豊富な国から材料を仕入れる。世界中で役割分担(サプライチェーン)をすれば、一番安く、一番良いものが作れる。そう信じられてきました。
しかし、その「効率」至上主義が、2つの大きな出来事で揺らぎます。
一つは、新型コロナウイルスのパンデミックです。 世界中の工場が止まり、物流が途絶えました。その結果、何が起きたか。日本ではマスクや消毒液が、世界では半導体が、まったく手に入らなくなりました。安さを追求して「作る場所」を一箇所に集めすぎた結果、そこが止まると全部が止まる、という「もろさ」が露呈したのです。
もう一つは、米中対立やロシアのウクライナ侵攻といった「地政学リスク」の高まりです。 昨日まで「ビジネスパートナー」だった国が、明日には「対立する国」になるかもしれない。そんな時、「効率」を優先して、自国の「アキレス腱」(=半導体など)の生産を、その国に任せきりにしていて大丈夫か?
この2つの教訓から、世界は学びました。
「安さ(効率)も大事だが、それ以上に『必要な時に、確実にて手に入る』こと(安全)のほうが、もっと大事だ」
こうして、世界のルールは「効率」優先から**「安全」**優先へと、大きく舵を切りました。
自国や、信頼できる「仲間(同盟国)」の範囲内で、重要なモノ(特に半導体)は作れるようにしておこう。この考え方を**「経済安全保障」**と呼びます。
ネクスペリア問題は、まさにこの「経済安全保障」という新しい物差しで、ビジネスが測られるようになった象徴的な事件だったのです。
理由3:「技術の流出」が、そのまま「軍事的な脅威」になるから
最後の理由が、最も深刻かもしれません。それは、企業買収が**「意図せぬ技術流出」につながり、それが自国の安全を脅かす「軍事的な脅威」**に直結する、という恐怖です。
ここで、ネクスペリアという会社について、少し背景をご説明する必要があります。
- ネクスペリア(Nexperia)は、オランダの半導体メーカーです。
- しかし、その親会社は「聞泰科技(Wingtech)」という、中国のスマートフォン関連企業です。
つまり、イギリス政府から見れば、「オランダの企業(ネクスペリア)によるイギリスの工場(NWF)の買収」は、実質的に**「中国資本によるイギリスの半導体技術・生産拠点の買収」**と映ったわけです。
これが、なぜ大問題なのか。
現在の米中対立に象徴されるように、西側諸国(日米欧)と中国との間には、経済だけでなく、安全保障上の深い緊張関係があります。
もし、イギリスの工場が持つ半導体技術や、そこで働く優秀な技術者たちが、買収を通じて中国側に渡ったとします。
その技術が、単に民生品(スマホや家電)に使われるだけなら、まだビジネスの競争ですむかもしれません。
しかし、もし、その技術が**「デュアルユース(軍民両用)」**だったら?
つまり、民生品を作る技術が、そのまま戦闘機やミサイル、ドローンといった「兵器」の高性能化に転用されてしまったら…?
企業が「ビジネスのため」に手に入れた技術が、気づかないうちに「ライバル国」の軍事力を高め、将来的に自国や同盟国に銃口を向ける兵器の一部になるかもしれない。
この「デュアルユース」の懸念こそが、経済安全保障の核心であり、各国政府が企業のM&A(合併・買収)に、国家の安全保障という物差しで厳しく目を光らせるようになった最大の理由です。
イギリス政府は、まさにこのリスクを重く見て、一度は容認しかけた買収を、「国家安全保障・投資法」という伝家の宝刀を抜いて、最終的に阻止(売却命令)する決断を下したのです。
具体例:これは「対岸の火事」ではなく、「日本の現実」
「なるほど、イギリスも大変だな。でも、それはヨーロッパの話でしょ?」
本当にそうでしょうか。この【ネクスペリア問題】とまったく同じ構図のリスクが、今、まさに日本でも起きているとしたら?
具体例1:日本の「お家芸」が狙われている 世界が「半導体!半導体!」と騒いでいますが、実は日本は「最終製品(チップ)」を作る力は失ったものの、その「素材(シリコンウェハーやフォトレジストなど)」や、「製造装置」といった分野では、今も世界トップクラスの圧倒的な技術力を持っています。
もし、これらの技術を持つ日本の優れた中小企業が、「経営が苦しいから」と、海外のよくわからないファンド(その実態が、ある国の政府系ファンドだったら?)に、二束三文で買収されてしまったら…?
ネクスペリア問題とまったく同じことが、日本で起きる(あるいは、もう水面下で起きている)可能性は、ゼロではありません。日本政府が慌てて「経済安全保障推進法」を整備したのは、まさにこの危機感からです。
具体例2:アメリカの「本気」の対中規制 この「経済と安全保障の一体化」を、最も強力に推進しているのがアメリカです。 アメリカは、「中国がAI半導体などの先端技術を軍事転用する」ことを極度に警戒し、自国の企業だけでなく、日本やオランダといった同盟国にも協力を求め、厳しい輸出規制をかけています。
これは、もはや自由な貿易ではありません。「安全保障上の脅威」と見なした相手には、たとえビジネス上の利益があっても、戦略物資(=半導体)は渡さない、という国家の強い意志の表れです。
具体例3:日本が国策で進める「ラピダス(Rapidus)」 皆さんも、北海道に巨大な半導体工場を作る「ラピダス」のニュースを耳にしたことがあるかもしれません。トヨタ、ソニー、NTTなど日本を代表する企業が出資し、国が巨額の補助金をつぎ込む、まさに「日の丸半導体」の再挑戦です。
これも、ネクスペリア問題の裏返しです。「重要な半導体は、他国に頼らず自国(あるいは同盟国)で作れるようにしておかなければ、国の存続が危うい」という危機感から、採算度外視とも思えるほどの「国策」として進められているのです。
まとめ:『見えないリスク』の時代に、私たちは何を優先すべきか?
今回深掘りした【ネクスペリア問題】は、決して遠い国の他人事ではありませんでした。
それは、私たちが長年信じてきた「グローバル化(効率)」という夢が終わり、**「経済安全保障(安全)」**という、新しい世界の厳しいルールが始まったことを告げる、象徴的な鐘の音だったのです。
この記事の要点を、もう一度振り返ってみましょう。
- 半導体は「現代の石油」: 国家の頭脳であり、これを握られることは国家の存続に関わる。
- ルールが変わった: 「効率」よりも「安全(経済安全保障)」が優先される時代になった。
- 技術流出は軍事的脅威: ビジネス(企業買収)が、意図せず「敵」を利する可能性がある。
- 日本も例外ではない: 日本の技術も常に狙われており、国策(ラピダス等)で防衛と再起を図っている。
これからは、企業も個人も、「安いから」「便利だから」という理由だけで物事を選ぶことはできなくなるかもしれません。
その製品は、どこで、誰が、どんな目的で作ったものなのか? その取引は、目先の利益を生むかもしれないが、長期的には自らの首を絞めることにならないか?
私たちは、そんな「目に見えないリスク」を常に考えなければならない時代に生きています。
さて、あなたに質問です。
この「効率」と「安全」が天秤にかけられる時代。 もしあなたが企業の経営者だったら、あるいは一人の消費者として、何を優先し、どのような選択をすべきだと考えますか?
私たちの「当たり前」が、足元から変わろうとしているのです。
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