序
月の光というものは、つくづく不公平なものだと思う。 天の頂にあるときは、分け隔てなく地上を照らすように見えて、その実、光の当たる場所と、色濃くなる影とを、冷ややかに選び分けているのだから。
かつて、私は光の中にいた。 帝の最初の女御として後宮に入り、誰よりも先に皇子を賜った。私の産んだ御子は、疑いもなく次の御代を継ぐべき東宮。父である右大臣の権勢も盤石で、私の前には輝かしい未来だけが広がっていると信じていた。夜ごと、帝は私の御殿へお渡りになり、その腕の中で、私は世界のただ一人の女だった。あの頃の月は、たしかに私だけを照らしていた。
そう、あんな女が現れるまでは。
桐壺。 思い出すだけで、舌の根が苦くなる。 最上の貴族出身でもない女が、帝の御寵愛だけを頼みに、この後宮でのし上がってきた。帝は、まるで正気を失われたかのように、あの女に夢中になられた。歴史に汚点を残しかねないほどの、狂おしいまでの御執心。臣下は眉をひそめ、私をはじめとした女御たちは、屈辱に唇を噛んだ。
「唐の国でも、楊貴妃という女のために乱が起こったとか…」
そんな陰口が、私の耳にも届いてくる。けれど、帝の御心は少しも動かない。それどころか、私たちの嫉妬が深まれば深まるほど、帝はあの女への憐憫を募らせ、いっそう片時も離さぬようになられた。
おかしいではないか。 この私が、帝の最初の妻が、東宮の母が、後から来た身分の低い女のために、日陰の存在に追いやられるなど。
私の嫉妬は、やがて、冷たい決意へと変わった。 あの女から、すべてを奪い返さねばならぬ。帝の御心も、後宮の秩序も、そして東宮の輝かしい未来も。そのためならば、私は鬼にでもなろう。
これは、光を奪われた女の物語。 月影の下で、静かに燃え上がった嫉妬の記録である。
第一章
あの女が産んだという御子を、初めて垣間見た日のことを、私は忘れない。 それは、まるで悪夢のようだった。
前々から、その類まれなる美しさの噂は聞いていた。生まれたばかりの赤子だというのに、「またもないような美しい皇子」などと、誰もが浮かれて口にする。帝の喜びようは尋常ではなく、まるで天から授かった宝物のように、その子を愛でていると伝え聞いた。馬鹿馬鹿しい。私とて、帝の御子を、それもこの国の東宮となるべき方を産んだのだ。その時の喜びと、どう違うというのか。
けれど、三歳になったその御子の袴着の式が、宮中を挙げて、私の産んだ東宮の時にも劣らぬほど派手に行われたと聞いた時、私の胸には黒い靄がかかった。帝は、本気でいらっしゃる。あの女の産んだ子を、我が子と並び立たせようと。いや、あるいは、それ以上の存在にしようとさえ、お考えなのではないか。
そんな疑念に苛まれていたある日のこと。 昼間に帝が私の御殿へお渡りになった。近頃では珍しいことだった。私の心は僅かに浮き立ったが、そのお顔を見て、すぐに凍りついた。帝は、あの御子を抱いていらっしゃったのだ。
「弘徽殿、この子を憎んではならぬよ。母親のいない、哀れな子なのだから」
帝はそう仰せになり、御簾の中へ、ためらいもなくその子を抱き入れた。私の許しもなく、私の領域へ。
陽光が、御簾を通して柔らかな縞模様を描く。その光の中に立つ小さな姿を見て、私は息を呑んだ。 光そのものが、人の形をなしたかのようだった。
透き通るような肌、絵に描いたような目鼻立ち、そして、すべてを見透かすような、深く澄んだ瞳。こんなにも美しいものが、この世にあってよいのだろうか。私の産んだ皇子たちも、誰が見ても立派な、愛らしい子らだ。けれど、目の前のこの輝きは、もはや人間のそれではない。
この子は、きっと、多くの人の心を惑わすだろう。 そして、何よりも、帝の心を永遠に繋ぎ止めてしまうだろう。
私の胸の奥で、カチリ、と何かが音を立てて壊れた。 ああ、やはり。 あの女は、死してなお、私から帝を奪い続けるのだ。この輝くばかりの忘れ形見を残して。
私は、顔に貼り付けた笑みの裏で、唇を強く噛み締めた。 この子がいる限り、私の月が、再び満ちることはない。
第二章
心が冷え切っていく、というのは、こういう感覚なのだろうか。 夜ごと、私は自分の御殿で、遠く響く帝の渡りの音を聞く。かつては私のもとへと向けられていたはずの、衣擦れの音と、静かな足音。それが今は、桐壺へ、桐壺へと吸い寄せられていく。待つことしか知らぬ夜が、私の閨に幾夜も幾夜も、氷のように降り積もっていく。
「女御様。帝の御心が離れては、東宮様の御未来にも影が差しますぞ」
昼間、父である右大臣が、苦々しげにそう言った。まるで、すべてが私の不徳であるかのように。わかっている。私とて、わかっているのだ。けれど、心までは思い通りにならぬ。帝の御前で、どうして素直に甘えられようか。あの女の面影が、帝の瞳の奥にいつもちらついているというのに。
私のプライドは、すでにずたずただった。 このまま、何もせずに朽ち果てるなど、到底できるはずもない。
ある夜、私は信頼できる女房に命じ、帝の寵愛から取り残されている女御や更衣たちを、密かに私の部屋へ集めさせた。灯りを落とした部屋で、彼女たちは日頃の鬱憤を堰を切ったように吐き出した。
「桐壺の更衣ばかりが、夜も昼も帝のおそばに…」 「まるで、私たちなどいないかのような御寵愛ぶりですわ」
私は、黙って皆の言葉に耳を傾けていた。そして、満を持して口を開く。声は、自分でも驚くほど冷たく響いた。
「皆の気持ち、よくわかります。ですが、嘆いてばかりいても始まりません。後宮には後宮の秩序というものがある。身分をわきまえぬ者が罰を受けるのは、当然のことではないかしら」
私の言葉に、皆が顔を見合わせ、やがて、ある種の共犯めいた光がその瞳に宿るのを、私は見逃さなかった。
それからの日々は、さながら盤上の遊びのようだった。 私は決して、自ら手を下しはしない。ただ、駒を動かすだけだ。
「桐壺へ続くあの渡り廊下、夜は滑りやすくて危のうございますね。誰ぞが汚物でも撒けば、送り迎えの女房たちも難儀いたしましょう」 「あら、あの扉の鍵は、時々かかりにくくなることがあるとか。もし、いざという時に開かなくなれば、さぞ困るでしょうに」
私の何気ない呟きは、意を解した女房たちによって、現実のものとなる。 着物の裾を汚された桐壺付きの女房が泣き言を言うのを、私は御簾の奥で聞いた。廊下の途中で立ち往生させられ、辱めを受ける更衣の噂を耳にし、冷たい満足感が胸に広がった。
少しは、身の程を知っただろうか。 ここがどういう場所であるか、思い知っただろうか。
だが、私の小さな勝利は、すぐに打ち砕かれた。 私たちの仕打ちを知った帝は、あろうことか、桐壺の更衣をさらに憐れみ、ご自身のいらっしゃる清涼殿にほど近い後涼殿を、あの女に与えたのだ。いつでも、すぐに会いに行けるように。私たちの嫌がらせから、守るために。
その知らせを聞いたとき、私は笑いさえ込み上げてきた。 やることなすこと、すべてが裏目に出る。私が燃やす嫉妬の炎は、あの女を傷つけるどころか、帝の愛を注がせるための薪にしかならないのだ。
もはや、盤上の遊びでは生ぬるい。 あの女の存在そのものを、この後宮から消し去ってしまわぬ限り、私の夜に、光は戻らない。
第三章
「桐壺の更衣が、病に伏したそうです」
女房の報告を、私は静かに聞いていた。天罰、とでも言うのでしょうか。あれほど帝の御寵愛を独占し、後宮の秩序を乱したのだ。当然の報いであろう。私の心は、凍てついた水面のように静まり返っていた。ただ、その水面下で、暗い期待が渦を巻いていた。
日に日に病は重くなり、実家へ下がりたいと願っているが、帝がお許しにならないらしい、と噂が流れてくる。帝の狼狽ぶりは、滑稽ですらあった。泣きながら引き留め、将来の約束を囁くなど、まるで三文芝居だ。あなたは帝。この国の天子。一人の女に、それほどまでしてみっともない。私の苛立ちは、あの女ではなく、帝のその弱さへと向かっていた。
早く、早く消えてしまえばよい。 私の前から、帝の御心から、この宮中から。
そして、その日は来た。 月のない、漆黒の夜だった。急ぎ参上した使いが、帝に何事かささやき、そして、帝の御殿の奥から、慟哭ともつかぬ嗚咽が漏れた。
ーーー死んだ。
その事実を悟った瞬間、私の全身を、歓喜ともいえるほどの解放感が駆け巡った。息が、ようやく深く吸える。長らく胸につかえていたものが、跡形もなく消え去った。 これで、すべてが終わるのだ。帝の狂おしいほどの恋も、私の屈辱の日々も。私の夜が、ようやく明ける。
だが、私の夜は、明けなかった。 それどころか、以前よりも深い、出口のない闇に閉ざされることになった。
帝は、政務も手につかぬほど嘆き悲しみ、御殿に引きこもられた。夜の御殿に、どの女御をお召しになることもない。私がお慰めしようと参上しても、お会いになることすらなかった。 帝の御心にあるのは、ただ一人、死んだ女の幻。
生きていた時ですらあれほど憎らしかったのに、死んだあの女は、さらに厄介な存在となった。帝の中で、思い出は美化され、手の届かぬ至高の女へと昇華されていく。生身の私では、もはや幻に太刀打ちすることなどできぬ。
極めつけは、あの女に三位の位を贈られたことだ。女御に相当する位階ではないか。生きていた間は、私への配慮か、それとも父への恐れか、決してなさらなかったことを、死んだ後になってなさるとは。死してなお、私を辱めるのか。
もう、我慢ならなかった。 ある月夜、私は自分の御殿で、盛大に音楽の宴を催させた。 帝が、亡き人を偲び、涙に暮れていらっしゃる時に。あえて、だ。
「もっと、華やかに!」
私は女房たちを叱咤し、琴をかき鳴らさせ、笛を吹かせた。聞こえるか。これが私の答えだ。あなたの悲しみなど、私には関係ない。私はここにいる。東宮の母である、この弘徽殿がいるのだ、と。
けれど、弦の音も、笛の音も、私の心の空虚さを埋めてはくれない。華やかな音色が響けば響くほど、私の孤独が際立っていく。この音は、帝の御心には届かない。帝は、今は亡き女が奏でたであろう、幻の音色に耳を澄ませているのだから。
私は宴を止めさせ、一人、月を見上げた。 雲一つない夜空に、冴え冴えとした月が浮かんでいる。 あの邪魔な女はいなくなったというのに、なぜ、あの光は私を照らさないのか。
勝ったはずなのに、満たされない。 私の戦いは、まだ終わってなどいなかったのだ。
終章
あれから、幾年かの月日が流れた。 帝の深い悲しみは、癒えることなく、宮中全体を覆う薄衣のように漂っていた。私も、もはや帝の御心を求めようとは思わなかった。ただ、東宮の地位を盤石にし、次の御代を確かなものにすること。それだけが、私の生きる意味となっていた。
だが、亡き女は、私に安息の時間すら与えはしなかった。 あの女の忘れ形見。若宮は、「光る君」と呼ばれ、その輝きは年々歳々、人の域を超えたものになっていった。それは、呪いであった。あの女の面影を宿した、美しすぎる呪い。帝がその御子を溺愛するお姿を見るたび、私の胸には、消したはずの炎の熾火が、じりじりと燻る。
そして、決定的な日が訪れる。 先帝の第四の内親王が、新しい女御として入内された。 藤壺。その方の御殿の名だ。
入内に先立ち、噂が後宮を駆け巡った。 「亡き桐壺の更衣に、生き写しだとか」
馬鹿な、と思った。人の顔など、そうそう似るものではない。ましてや、あの女ほどに帝を惑わせた美貌など、二つとあってたまるものか。それは、亡き人を忘れられぬ者たちが見る、都合の良い幻に過ぎぬ、と。
だが、私は間違っていた。 初めて藤壺の宮のお姿を遠目に拝見した日、私は我が目を疑った。 違う。生き写しなどという生易しいものではない。あれは、桐壺の更衣そのものだ。ただ、比べ物にならぬほどの高貴な身分と、何者にも穢されぬ威厳をその身にまとって、完璧な姿で蘇ったのだ。
帝が、その方に再び心を奪われるのに、時間はかからなかった。帝のお顔に、私がとうに忘れていた、恋する男の眼差しが戻っていた。 私は悟った。ああ、私は、永遠に勝てぬのだ、と。 身分の低さを突き、その存在を貶めることでしか対抗できなかった私にとって、この完璧な後ろ盾を持つ「桐壺の写し身」は、もはや手の出しようもない存在だった。
そして、私の敗北を決定づける光景を、私は見てしまう。
ある日の昼下がり。藤壺の宮の御殿の庭で、光る君が、楽しげに蹴鞠に興じていらっしゃる。その姿を、藤壺の宮が、御簾の中から慈愛に満ちた微笑みで見つめておられる。 光る君は、母の面影をその方に重ねているのだろう。無邪気に甘え、慕っている。
あの女の息子が、あの女の生き写しを、母として慕っている。
その光景は、一枚の絵のように、あまりにも美しく、完璧だった。 私の嫉妬も、憎しみも、策略も、何一つ入り込む隙間のない、光に満ちた世界。 帝の愛も、あの美しい若宮も、そして新しい后の微笑みも、すべてはあの桐壺という女から始まり、繋がり、そして完結している。 そこには、初めから、私の居場所などなかったのだ。
私は、静かにその場を離れた。 夜空を見上げても、もう月を探そうとは思わなかった。
光を求めるのは、もうやめよう。 光が強ければ強いほど、影は濃くなる。 ならば私は、影として生きよう。この国で最も深い、最も冷たい影として。 我が子を帝位につけ、この光に満ちた者たちの上に君臨する、その日までは。
私の戦いは、終わった。 そして、新たな戦いが、静かに幕を開けた。