『夏が始まった、僕らの番だ』

アスファルトの照り返しと、無機質なシャッター音の洪水から逃げ出したかった。息が詰まるような満員電車も、クライアントの顔色を窺うだけの打ち合わせも、何もかもを投げ出して、僕は海辺の町へ向かう電車に飛び乗った。

目的の駅は、ICカードの使えない、木造の小さな駅舎だった。潮の匂いを含んだ涼しい風が、汗ばんだ首筋を撫でていく。空は、忘れていたくらいに真っ青で、その匂いを胸いっぱいに吸い込むと、強張っていた肩の力が少しだけ抜けた気がした。

「今日はダラッと過ごしてみようか」

誰に言うでもなく呟き、亡くなった祖母が遺した古い家の引き戸を開ける。畳と少しの埃っぽさが混じった懐かしい匂い。僕が最後にここを訪れたのは、いつだっただろう。静まり返った家の中、縁側から聞こえる風鈴の音だけが、やけに鮮明に響いていた。チリン、と鳴るたび、止まっていた時間がゆっくりと動き出すようだ。

最初の数日は、本当に何もせずに過ごした。縁側で庭のひまわりを眺めたり、蝉の鳴き声に耳を澄ませたり、夕焼けが空を染め上げるのをただ見送ったり。黄色く咲き誇るひまわりを見ても、シャッターを切りたい衝動は湧いてこない。僕の心は、乾いたスポンジのように、何も感じなくなっていた。ファインダー越しではない世界は、ひどくぼんやりとしていて、まるで他人事のようだった。私には関係ないと、そう思っていたんだ。

夏が始まって一週間が経った頃。僕は意を決して、祖母が使っていた部屋の片付けを始めた。埃をかぶった桐箪笥の一番下の引き出しに、それはあった。黒いレザーケースに収まった、古いフィルムカメラ。そして、小さな紙箱に入れられた、数本の未現像フィルム。

好奇心、というほど強い感情ではなかったかもしれない。ただ、何かをせずにはいられなかった。僕は町に一軒だけある写真屋にフィルムを持ち込み、現像を頼んだ。 数日後、受け取ったネガをライトボックスにかざした時、息を呑んだ。そこに写っていたのは、祖母が見ていた、ありふれた日常の断片だった。

縁側で昼寝をする三毛猫。庭で実ったトマトの、瑞々しい赤。隣の家のサトウさんが、皺だらけの顔で笑っている。特別なものは、何ひとつない。けれど、一枚一枚に、被写体への確かな愛情が満ちていた。構図もピントも、プロの目から見れば甘いものばかりだ。でも、僕が撮るどんな完璧な一枚よりも、ずっと雄弁に「生」を語っていた。

その夜、僕は久しぶりにカメラを手に、夜の浜辺を歩いた。満天の星が、東京の空とは比べ物にならないくらい、強く、大きく煌めいている。波の音を聞きながら、僕は一枚のプリントをじっと見つめた。

「映画じゃない。主役は誰だ」

祖母の写真に写る人々は、誰もが自分の人生の主役だった。スポットライトを浴びなくても、喝采を浴びなくても、彼らの日々は物語だったんだ。 じゃあ、僕はどうだ? クライアントの望む「映画みたいな」一枚を撮るために、誰かの物語を消費してきただけじゃないのか。僕自身の物語は、どこにある?

わかってる。いつかは終わる。この夏も、夜空の煌めきも、僕の人生も。だからこそ、撮らなければならない。僕の目で見た、僕だけの物語を。

傷つき疲れるのは、もう覚悟の上だ。本気になればなるほど臆病になることも知っている。それでも、溢れ出しそうなこの想いを、もう零したくはなかった。 僕はカメラを構えた。ファインダーの先には、月明かりに照らされた、静かな波頭が光っている。

夏が始まった。 恋じゃない。仕事でもない。 これは、僕が僕自身を取り戻すための、戦いだ。

映画じゃない。僕らの番だ。 照らしてくれよ、夏。僕だけの夏を。

カシャリ、と。乾いたシャッター音が、夏の夜に小さく響いた。

Comments

No comments yet. Why don’t you start the discussion?

    コメントを残す

    メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です