『ランタン・ワンダーランドと最後のコンチェルト』

私に足りないのは人生経験とあと何かしら。 分厚い雲が空に蓋をして、昼も夜もランタンの灯りがなければ心許ないこの街で、私はよくそんなことを考える。街の誰もが、世界の終わりが近いことを知っている。けれど、慌てる者はもういない。私たちはただ、この緩やかな滅びの中を、ランタンの光を頼りに静かに歩いているだけだ。

私の役目は、代々続く灯り守の一族として、街の中央に聳える《大ランタン》の光が絶えないよう見守ること。そして、私の個人的な営みは、相棒のノクスと共に時間を過ごすこと。さっきから私が爪弾く古びたギターのコードに、彼はただ沈黙で応える。とっくにもう I bought、蚤の市で見つけた揃いのグラスとお茶碗。それなのに、テーブルに並ぶのはいつも一つだけ。だってそもそも、彼は人間じゃない。

彼は、この世界の夜そのものが人の形をとったような存在だ。飲食を必要とせず、体温さえ持たない。触れると、磨かれた黒曜石のようにひやりとするだけ。フラットみたいにいれたんなら良いんだろうけどそりゃ良いんだろうけどなぁ。彼との間には、決して越えられない透明な壁があることを、私は毎日思い知らされる。

彼に振り向いてほしくて、その壁を少しでも薄くしたくて、私は大人になろうと決めた。大人になれば、もっと多くのことを理解し、彼と対等に向き合えるかもしれないから。書庫の奥から引っ張り出した古いレコードに針を落とし、全く分からないクラシック音楽に耳を傾ける。週末には架空のコンサートに行く真似事をして、二人分のブラックコーヒーを淹れてみる。苦くて飲めやしないのに、無理に口に含んでは、そっとため息をついた。

「私がクラシックを分かるようになったら、結婚してくれる?」

ある晩、レコードから流れるピアノソナタを聴きながら、冗談めかして問いかけた。答えはない。彼はいつものように、窓の外の薄闇を眺めているだけ。けれど、その時だけは、彼の影のような横顔がほんの少しだけ和らいだように見えた。気のせいだったかもしれない。それでも、私の心には小さな灯りがともる。涙みたいな宝石のイヤリングを着けても、きっと貴方は振り向かない。それでも、私は祈るような気持ちで、滅びゆく世界の片隅で背伸びを続けるしかなかった。

そんなある日、街に一枚のビラが配られた。 「最後のコンサート」 この世界に残された、最後の音楽家たちによる、最後の演奏会。その知らせは、静かな街に小さな波紋を広げた。人々はそれを口々に囁き合った。諦めと、悲しみと、そしてほんの少しの期待を込めて。みんなが待ってる、人類滅亡ワンダーランド。その言葉が、私の胸を鋭く締め付けた。これが、本当に最後の夜になるのかもしれない。

私は決めた。このコンサートが終わったら、大人になろう。この叶わない恋も、子供じみた憧れも、全部あの場所に置いてこよう、と。

コンサートの夜、私は一番のお気に入りのワンピースを着て、祖母から譲り受けたイヤリングを耳につけた。ノクスはいつもと変わらない様子で私の隣を歩く。広場は、街中のランタンが集まったかのように明るく、人々は最後の祝祭に臨むような面持ちで席に着いていた。

やがて、広場の中央に設けられたささやかなステージで、弦楽四重奏が始まった。奏でられたのは、遠い昔に滅びた国の作曲家が書いたという、郷愁に満ちたメロディ。チェロの低く咽ぶような音色が、この世界の悲しみをすべて引き受けたかのように響き渡る。人々は皆、その音に聞き入っていた。失われた故郷を、もう会えない誰かを、輝かしい過去を思い出すかのように。

その、荘厳なメロディが最高潮に達し、一瞬の静寂が訪れた、その時だった。

街の生命線である《大ランタン》の炎が、大きく揺らめいた。そして、まるで悪意に満ちた息で吹き消されるかのように、すうっとその光が弱まっていく。広場が急速に暗転し、人々の間に声にならない悲鳴が広がった。ランタンの光は消さないで。誰もがそう祈ったはずだ。肌を刺すような冷気と共に、純粋な闇が、すぐそこまで迫ってきていた。

もうダメだ、と目を固く閉じた私の前に、すっと影が差した。

ノクスだった。 今までただ私の傍らに佇むだけだった彼が、私と、消えかかった《大ランタン》の光を守るように、その前に立っていた。闇から生まれた彼が、まるで盾になるかのように、じわじわと滲み寄る本当の闇と対峙している。彼の体から、夜よりも深い静寂が放たれているようだった。その背中は、どんな言葉よりも雄弁に、何かを語りかけていた。

結局、コンサートは中断され、《大ランタン》の光は熟練の灯り守たちの懸命な作業でなんとか持ち直した。ノクスはいつの間にか私の隣に戻っていて、何事もなかったかのように静かに佇んでいる。

彼が何を守ろうとしたのか、私には分からない。この街の光か、それとも、光を見つめる私だったのか。その答えを探すのは、もうやめようと思った。

私に足りないのは人生経験とあと何かしら。 その「何か」は、きっと、答えのない問いを受け入れ、ただ隣にある温もり(たとえそれが冷たくても)を信じる強さなのかもしれない。

翌朝、私は二つのカップにブラックコーヒーを淹れた。立ち上る湯気の向こうで、ノクスがじっとこちらを見ている。私は一つを彼の方へそっと押しやった。 「苦いけど、美味しいのよ。明日の為に、飲むの」 彼はもちろん、それに口をつけることはないだろう。けれど、それでよかった。

ランタンの光は、まだ、ここに灯っている。 ランタンの光は、消さないで。 この終末には、まだ穏やかなコンサートと、二人分のコーヒーがよく似合う。

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