錆びたガードレールの向こうに広がる、夕暮れの海。その手前には、古びた家々が肩を寄せ合うように建ち並ぶ小さな港町。遠く、神社の杜のそばに、大きな山車小屋の屋根だけが見えている。空と海が溶け合う茜色の中に、物語のタイトルが静かに浮かび上がる。
潮の香りが、アスファルトのひび割れから立ち上る。それが、僕の生まれた町の匂いだった。 高校を卒業して、同級生のほとんどがこの町を出て行った。賑やかだった駅前の商店街はシャッターが増え、子供たちの声が響いていた路地は、今では野良猫の散歩道だ。
僕、湊人(みなと)は、この町に残り、祖父から継いだ小さな造船所の仕事を続けている。錆びついた鉄屑と油の匂いに塗れる毎日。それでも、この場所が、この寂れゆく町が、僕の全てだった。
君に見せたい景色がある。 そう心の中で呟き、僕は巨大な山車を見上げた。年に一度の夏祭り。この町が、一年で唯一、往年の熱気を取り戻す日。その主役が、この山車『海神丸(わだつみまる)』だ。僕の曽祖父も、祖父も、そして父も曳いてきた、町の歴史そのもの。
でも、その歴史を繋ぐ担い手は、もう僕の世代でほとんど残っていない。 「時代の車輪に、僕らが燃料となり…」 誰かが言った言葉が、やけに重くのしかかる。この山車を動かすことは、僕らの残り少ない若さと未来を燃やして、町に一瞬の夢を見させることなのかもしれない。
僕の「好き」を、どう思ってくれるかな。 この町を、この祭りを、守ろうとしている僕のことを、都会に出ていった君――汐里(しおり)は、どう思うだろう。
【挿絵1:挿入箇所】
薄暗い山車小屋の中、湊人が一人、巨大で荘厳な山車を見上げている。窓から差し込む斜陽が、山車の精巧な彫刻と、湊人の真剣な横顔を静かに照らし出している。彼の孤独と、山車に懸ける静かな情熱が伝わってくる一枚。
祭りの一週間前、祭りの実行委員会が開かれた公民館は、ため息に満ちていた。 「今年も人手が足りん」 「このままじゃ、山車を出すのは無理だ」 年配の男たちの声が、蛍光灯の光に吸い込まれていく。僕は何とか反論しようとするが、言葉にならない。譲れないところが増えてゆく。この祭りは、僕にとって、いつの間にかただの伝統ではなく、自分自身の一部になっていた。
その夜、僕は一人、港の防波堤に座って海を眺めていた。スマホを取り出し、汐里のSNSを開く。都会のきらびやかな夜景を背景に、知らない友人たちと笑う彼女がいた。その笑顔が、少しだけ胸に痛かった。
祭りの前日、造船所で黙々と作業を続けていると、聞き慣れたクラクションが鳴った。顔を上げると、一台の軽トラック。運転席からひょこりと顔を出したのは、数年ぶりに見る、汐里だった。 「…湊人。久しぶり」 少し大人びた笑顔は、記憶の中のそれと寸分違わずに重なった。
その夜、僕たちは昔のように、親父の軽トラックの荷台に並んで腰掛けた。満天の星が、静かな港町を照らしている。 「すごいね、星。東京じゃ、こんなに見えないよ」 「…そうか」 「湊人は、すごいよ。ちゃんと、自分の場所を守ってる」 汐里は、僕が一番言ってほしかった言葉を、いとも簡単につぶやいた。心が、じんわりと温かくなる。でも、同時に気づいてしまう。彼女が言う「自分の場所」と、僕が今いる場所は、もう決して交わることのない世界なのだと。解けない魔法と現実が、すぐそこにあった。
【挿絵2:挿入箇所】
夜の港。停泊する漁船の明かりを遠くに、軽トラックの荷台に並んで座る湊人と汐里。二人は満天の星空を見上げている。汐里は少し寂しげに微笑み、湊人はその横顔をそっと見つめている。二人の間の、言葉にならない切ない距離感が描かれている。
祭りの日。 集まった若者は、僕を含めてたったの十数人。それでも、法被に袖を通し、鉢巻を締めれば、不思議と力が湧いてきた。汐里も、人手が足りないと聞くと、当たり前のように手伝いの浴衣に着替えてくれた。
陽が落ち、提灯に灯りがともる。 「いくぞ!」 僕の掛け声を合図に、軋むような音を立てて、巨大な山車がゆっくりと動き始めた。重い。指がちぎれそうだ。だが、誰も綱を離さない。沿道からは、まばらではあるが、お年寄りたちの温かい声援が飛ぶ。
「どこまでが、ただ、愛と呼べんだろう」
この町への想い。仲間との絆。汐里への気持ち。汗と熱気の中で、全てが一つに溶け合っていく。僕らは今、確かにこの町の歴史を、未来へと運んでいた。風に運ばれる度に、ひとりを知るんだろう。いつかこの熱狂が去った後、僕はまた一人、この町で生きていく。それでも、良かった。
感触は褪せてしまうけど、確かなメモリアル。心が帰れる場所。 僕にとって、この景色が、この瞬間が、愛しのファミーリエだった。
【挿絵3:挿入箇所】
祭りのクライマックス。夜の闇に提灯の赤い光が乱舞する中、湊人を中心に数人の若者たちが、必死の形相で巨大な山車の綱を引いている。流れる汗、食いしばる歯、天を仰ぐような叫び。熱気と情熱、そしてどこか悲壮なまでの美しさが凝縮された瞬間。
山車が神社の境内へと納められ、祭りは終わった。 燃え尽きたような静寂の中、汐里が僕の隣にやってきた。 「…綺麗だった」 「…ああ」 「私、明日の始発で帰るね」 わかっていたことだった。頷くので精一杯だった。彼女は「またね」と小さく手を振り、夜の闇に消えていった。追いかけることは、しなかった。
ここまでが、ただ、序章と呼べんだろう。 終わらせ方は僕次第。
僕は一人、提灯の灯りも消えた境内に佇み、巨大な山車の影を見つめていた。来年、この山車を動かすことができるだろうか。わからない。 でも、感情は忘れないでしょ? 汐里が見てくれた、あの熱くて泣けるほどの景色。それだけが、僕の胸の中で、いつまでも消えない温かな灯りとなって、揺らめいていた。