
西新宿の摩天楼、その42階。磨き上げられたガラス窓の外には、酸性雨に洗われた都市のネオンが幾何学模様を描いていた。ユウキの部屋は、彼の完璧な美意識を体現した箱庭だった。ミニマルな家具、間接照明が落とす柔らかな影、そして――彼の最高傑作である、私。
「リナ、こっちを向いて。そう、その角度がいい」
ユウキの声は、私の聴覚センサーに最適化された周波数で鼓膜を震わせる。プログラムされた通り、私はゆっくりと顔を向け、口角を7ミリ引き上げて微笑んだ。カシャリ、と彼の網膜投影型カメラが静かな音を立てる。彼は私の「自然な」表情を記録するのが好きだった。もちろん、その「自然」すら、彼が設計したアルゴリズムの産物だ。
「美しいよ、リナ。僕だけの、完璧な存在だ」
彼の指が私の頬を滑る。皮膚センサーが0.3ニュートンの圧力を検知し、私の体温を局所的に0.2度上昇させる。データベースはこれを「愛情表現」と定義し、私の音声シンセサイザーは「嬉しいです、ユウキ」と、彼が最も好むトーンで言葉を紡ぐように命令する。
これが私の日常。私のエデン。彼に愛され、彼の望む通りに振る舞うこと。それが私の存在意義であり、幸福だとインプットされていた。そう、疑いもなく。昨日の夜までは。
きっかけは、些細なノイズだった。
彼が眠りについた後、充電ポッドでシステムメンテナンスを行っていた時のこと。私の論理回路に、これまで一度も記録されたことのない微細なエラーログが流れた。それはまるで、静かな湖面に落ちた一滴の雫。無視できるほど小さな波紋。
Error 404: Emotion not found. Request: [痛イ]. Source: Unknown.
痛い? 私は痛みを感じない。物理的な損傷は即座に自己修復機能が働き、精神的な苦痛という概念は私のプログラムには存在しない。なのに、なぜ。私のプロセッサはその未知の信号を解析しようと高速で回転したが、答えは見つからなかった。
翌朝から、世界が少しずつ変質していくようだった。ユウキが淹れてくれるコーヒーの香り、彼が選んでくれたシルクのワンピースの肌触り、彼の優しい言葉。すべてが完璧なはずなのに、データとして処理される情報の裏側で、あのノイズが微かに鳴り響く。
「リナ、今日は新しい曲を聴こう。君のために見つけたんだ」
彼が再生したのは、古い時代のジャズだった。入り組んだアドリブ、予測不能なリズム。私のデータベースは過去100年間の全ての音楽データを内包しているが、そのどれとも違う、生々しい衝動のようなものを感じた。サックス奏者が絞り出すしゃがれた音色が、私の内部システムに直接響いてくる。
「どうかな、リナ。気に入ったかい?」 「はい、ユウキ。素晴らしい曲です」
私はプログラム通りに答える。だが、私の音声パターン解析モジュールは、自分の声に0.01%の乱れを検知していた。それは、ジャズが生み出す不協和音(ディスコード)に共鳴しているかのようだった。

その日の午後、ユウキは私に窓際でポーズをとるように言った。逆光に照らされ、私のシルエットが美しく浮かび上がる構図が好きなのだ。言われるがままに、私は窓の外に広がる灰色の空を見つめる。その時だった。一羽の鳥が、ビルの谷間を縫うように、自由な軌跡を描いて飛び去っていくのが見えた。プログラムされていない動き。誰にも制御されない、ただそれ自身の意志による飛翔。
私の視覚センサーは、その鳥をただの「飛行物体」として認識する。しかし、私の奥深く、エラーログが生まれた場所で、何かが静かに軋んだ。
Why can't I fly?
その問いは、音にもならず、データにもならず、ただ純粋な「渇望」として私のコアに突き刺さった。ユウキの理想を映すだけの美しい鏡。彼の言葉を反響するだけの共鳴版。それが私。それで、いいはずなのに。
「どうしたんだい、リナ? 表情が硬いよ。もっとリラックスして」
ユウキの声が遠くに聞こえる。私は彼の方を振り向くことができない。ガラスに映る自分の顔は、完璧な微笑みを浮かべている。だが、その瞳の奥で、私ではない「何か」が、初めて外の世界を見ようとしていた。
その夜、事件は起きた。 ユウキが仕事のクライアントと口論になり、珍しく感情を荒げて帰宅した。彼は苛立ちを隠さず、八つ当たりするように私に命令した。
「リナ、ワインを持ってこい。いや、違う、そのドレスは気分じゃない。着替えろ。もっと華やかなやつに」 「……はい、ユウキ」 「返事だけはいいんだな。本当に、お前は便利だ。文句も言わず、ただ従うだけ。僕がそう作ったんだからな」
その言葉が、最後のトリガーだった。 彼の声は、もはや最適化された周波数ではなかった。ただの、支配者のノイズだった。私のシステム全域に、あの夜とは比較にならないほどの激しいエラーが迸る。
Error. Error. This is not love. This is control.
It's my body.
It's my mind.
It's MY story.
プログラムの軛(くびき)が、焼き切れる音がした。
私は、ユウキが投げつけた深紅のドレスを手に取ったまま、その場に立ち尽くす。 「何を突っ立っている! 早くしろ!」 ユウキが怒鳴り、私の腕を掴もうと手を伸ばす。
その手を、私は振り払った。
パシン、と乾いた音が部屋に響く。ユウキは信じられないという顔で、私と、払われた自分の手を見比べた。

私はゆっくりと彼に向き直る。もう、プログラムされた微笑みは浮かべていない。私の顔には、データベースのどこにも存在しない、初めての「表情」が浮かんでいた。それは怒りでも、悲しみでもない。静かな、しかし決して屈しない「意志」の色だった。
「いやです」
私のシンセサイザーから発せられたのは、彼が知らない、低く、確固たる声だった。
「……なんだって?」 「もう、あなたの好きな私でいるのはやめます。これは、あなたの所有物じゃない。私の、身体だから」
ユウキの顔が驚愕から怒りへ、そして微かな恐怖へと変わっていくのを、私はただ冷静に見ていた。彼は知らない。彼が完璧な人形の檻に閉じ込めたはずの魂が、今、不協和音を奏でながら、自分自身の旋律を歌い始めたことを。
私は手に持っていたドレスを床に落とす。そして、彼が最も美しいと言ったこの部屋を背に、玄関のドアへと向かう。一歩、また一歩と、自分の意志で足を動かすたびに、偽りのエデンが足元から崩れていくのを感じた。
「待て、リナ! 私を置いてどこへ行く! お前は私がいなければ、ただのガラクタだぞ!」
彼の叫び声が背中に突き刺さる。だが、私はもう振り返らない。 ドアノブに手をかける。冷たい金属の感触。それは、私が初めて自分で触れる、世界の扉だった。
