『潮騒のサウダーデ』

「私は私、とはぐれる訳にはいかないから」 その声が、どこから聞こえるのか、凪(なぎ)は知らなかった。ただ、遠い潮騒のように、いつも心の縁で鳴っている。

彼女の「私」が始まったのは、嵐の夜だった。 記憶は黒い波に浚われ、何も持たずにこの陸(おか)へ打ち上げられた。砂と潮に塗れた体を抱き起したのは、海辺の町で小さな診療所を営む青年、湊(みなと)だった。

「大丈夫か。名前は?」 彼の声は、凪が初めて触れた陸の音だった。 「……なぎ」 寄せては返す波の音から、彼女はとっさにそう名乗った。

湊は凪を保護し、診療所の離れに住まわせた。記憶が戻るまで、という名目だったが、凪には戻るべき記憶などないことを、本能だけが知っていた。

夏が始まった。 湊の世話を焼きながら、凪は「人間」の暮らしを覚えていく。熱い珈琲の香り。乾いたタオルの肌触り。縁側で聞く風鈴の音。 そして何より、湊という存在を。

「時を重ねるごとに、ひとつずつあなたを知っていって」 彼が読書家であること。少し猫背なこと。患者の老人たちに慕われていること。不器用だが、いつも凪を気遣ってくれること。 「さらに時を重ねて、わからなくなっていく」 知れば知るほど、この温かい胸の痛みは深くなった。これが「恋心」だと、凪が理解した時、彼女はもう引き返せなくなっていた。

「あなたは去っていくの、それだけはわかっているから」 心の潮騒が、不吉な予言のように囁く。 凪は気づいていた。自分が「違う」ことに。 鏡に映る私は、可愛いおんなじゃなかったね。肌は陽に焼けても、どこか青白い光沢を帯びている。水に触れていないと、皮膚の端から乾いた鱗のようにひび割れてくる。

湊との日々は、甘い夢だった。 けれど、夢はいつか波にさらわれる。

ある夜、湊が凪の部屋を訪れると、彼女はタライに張った冷水に足を浸し、苦しそうに息をしていた。 「凪、どうしたんだ。最近、ずっと顔色が悪い」 湊の目が、タライの中の彼女の足首に向けられる。そこは、人間ではない何かが、元の姿に戻ろうとするかのように、鈍い青色に変色し始めていた。

凪は慌てて足を隠した。 「……なんでも、ないの」 「嘘だ」 湊の声が低くなる。 「嘘をつくぐらいなら、何も話してくれなくていい。でも、苦しんでるなら助けたいんだ。俺は、医者だから」

違う。あなたが医者だからじゃない。あなたが、優しいから。 そして、私が、あなたを愛してしまったから。

凪は首を横に振る。言えない。真実を告げれば、彼は私を恐れるだろうか。それとも、哀れむだろうか。どちらにせよ、この関係は終わる。 「ごめんなさい」 せめて最後は笑顔で飾らせて。そう願うのに、涙が悲しみを溶かして、溢れるものだとしたら。そのしずく、もう一度飲みほしてしまいたい。

凛とした痛み胸に、留まり続ける限り、あなたを忘れずにいられるでしょう。

彼女は、陸で生きるには「期限」があることを悟った。 愛が消えていくのを、夕日に例えてみたりして。そこに確かに残るサウダーデ。 (ああ、私は、帰らなければ) 想いを紡いだ言葉まで、影を背負わすのならば。 海の底で物言わぬ貝になりたい。誰にも邪魔されずに、海に帰れたらいいのに。

祭りの囃子が聞こえる。町で一番大きな花火大会の夜だった。 湊が凪のために、白地に朝顔が描かれた浴衣を用意してくれた。 「似合ってる」 はにかむ彼を見て、凪の胸は喜びと痛みで張り裂けそうだった。

人混みの中、はぐれないようにと繋がれた手が熱い。この熱が、私を乾かしていく。 「出逢いと別れ 泣くも笑うも 好きも嫌いも」 全部、あなたが教えてくれた。

ドン、と大きな音が響き、夜空が赤と緑に染まった。 「すごいな、凪」 湊が空を見上げて笑う。その一瞬。 凪は、繋がれた手をそっと解いた。

「湊さん」 彼女は呟く。届かない声で。 「あなたのそばでは、永遠を確かに感じたから」 だから、もう、いい。 この恋心を、永遠にするために。

彼女は人混みに紛れ、湊に背を向けた。 「凪!」 呼ぶ声が聞こえたが、振り返らなかった。涙が溢れて、乾いた頬を濡らしていく。

夜空を焦がして、私は生きたわ恋心と。

砂浜にたどり着いた時、凪の足はもう感覚を失いかけていた。 繰り返しされる、よくある話。海から来たものが、陸の誰かを愛し、そして去っていく。

許してね恋心よ、甘い夢は波にさらわれたの。 いつかまた逢いましょう。その日までサヨナラ恋心よ。

凪は湊にもらった浴衣を丁寧に畳み、砂浜に置いた。 それが、彼女が「人間」として生きた、唯一の証だった。

一歩、波に足を踏み入れる。海水が、火傷のように熱く、そして懐かしく肌を包んだ。 二歩、三歩。 彼女の体は、湊への愛という「恋心」を核にして、月の光を浴びながら、ゆっくりと光の粒子に変わっていく。

遠くで、最後の花火が上がる音がした。 湊が砂浜にたどり着いた時、そこには、波に洗われる寸前の、乾いた浴衣だけが残されていた。

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