『星雲(ネビュラ)の籠』

コールドスリープの冷たいゲルが引いていく感覚で、シズクは意識を取り戻した。 アラートは鳴っていない。船内は不自然なほど静かで、ただ重低音の生命維持装置のノイズだけが響いている。 彼女が最後に見た光景は、コントロールパネルを埋め尽くす赤一色の警告と、船体をきしませる未知の重力波の衝撃だった。

「状況報告…」 かすれた声で呼びかけると、コンソールは虚しく明滅するだけだった。 航行システム、沈黙。 通信システム、沈黙。 ワープドライブ、機能停止。

探査船『アウルム』は、今やただの鉄の棺桶と化していた。

窓の外には、息をのむような、しかし絶望的な光景が広がっていた。 紫と藍、そして燃えるような赤が混ざり合う、巨大な星雲(ネビュラ)。 『アウルム』は、この名もなき星雲のただ中を、意思なく漂流していた。 まるで、過ぎ去った町の侘しさも、これから出会うはずだった人々の空しさも、すべてを乗せて流れていく、太古の詩にうたわれた雲のように。

シズクは唯一の生存者だった。他のクルーは、重力波の直撃でメイン居住区画ごと宇宙(そら)に散った。 今日の悲しみは、昨日のログに残された彼らの笑顔。 明日の喜びは、決して届くことのない救援の夢。 そのすべてが、この星雲という巨大な「風」に流されていく。ここが、自分の「あるべき場所」だとは思えなかった。

『アウルム』がこの星雲に囚われて、何度目のサイクルが経過しただろうか。 シズクは観測ドームに座り込み、ガラス越しに広がる混沌とした美しさを見つめるのが日課になっていた。

「吹き荒れて、流れ流れて…」 彼女は、祖母が好きだった古い詩の一節を無意識に口ずさんだ。 「今はもう、こんなところ…」

彼女の孤独を慰めるのは、旧式のメンテナンス・ドローン『ロビン』だけだった。丸いボディに、不器用なアームが二本ついた、AIと呼ぶのもおこがましい機械。 シズクはロビンに、船体の微細な損傷をチェックさせたり、意味もなく船内を掃除させたりしていた。

「ねえ、ロビン。ここ、どこだと思う?」 シズクが問いかけると、ロビンは電子音で『フシメイノ・クウイキ。キカン・ルート、サイタンサクチュウ』と繰り返すだけだった。 その答えが嘘だとわかっていても、シズクはその無機質な応答に救われていた。

あるサイクル日。 船体の外殻に付着した微小なデブリを除去するため、シズクはロビンを船外に射出した。 細い、しかし強靭なはずのワイヤーが、ロビンと『アウルム』を繋ぐ命綱だ。

作業は順調だった。シズクがコンソールを操作し、ロビンが小さなアームでデブリを弾いていく。 その時だった。 昨日までは静かだった星雲のガスが、予兆もなく荒れ狂った。観測計が、局所的なエネルギーの奔流を警告する。 「ロビン、戻って! 急いで!」

だが、遅かった。 エネルギーの波に煽られ、ロビンの機体が激しく揺さぶられる。 『キケン。キケン。ワイヤー・テンション、キョヨウガイ』 悲鳴のような電子音。 そして、張り詰めた金属が断ち切れる鈍い衝撃が、船体を伝わった。

ワイヤーが切れた。

ロビンは、まるで意思を失ったように、ゆっくりと『アウルム』から離れていく。 「飛ばされて、ゆらり揺られ」 シズクはコンソールに張り付き、必死に遠隔操作を試みるが、推進システムはもう応じない。

ロビンは、かつて別のミッションで損傷し、シズクが応急処置で補修したソーラーパネルを虚しく広げていた。それはまるで、「傷だらけの羽」のようだった。 その羽は、もうどこへも飛ぶ力を持たない。 星雲の濃い闇の中へ、「宙に舞って、急に落ちて」いくように、ロビンは見えなくなった。

「ふと思う。ここはどこ…」

船内は再び、完全な沈黙に包まれた。 シズクは観測ドームにうずくまり、声を殺して泣いた。 もう、何もかもが終わりだった。

どれほどの時間が過ぎたか。 シズクはふと顔を上げた。 涙に濡れた目が、コンソールの一部を捉える。 『緊急用ビーコン・システム:スタンバイ』

それは、船のすべての動力が失われた後、最後の数サイクルだけ機能する、極小出力の救難信号。 届くはずがない。この星雲の奥深くまで、助けが来るはずがない。

だが、シズクは震える手でパネルを操作した。 「祈る…どうか導いて」 指がビーコンの起動スイッチを押す。

「願う…どうか連れて行って」 それは、この宇宙のどこかにいるかもしれない、見知らぬ誰かに向けた祈り。

「握る…手は離さないで」 彼女は、今はもうないロビンのワイヤーの感触を思い浮かべ、冷たいコンソールを握りしめた。

「胸はって、飛んで行かせて」 この鋼鉄の籠(かご)は「飛べない鳥」。 でも、せめてこの「祈り」だけは、この星雲を越えて飛んでいけ。

ビーコンの微弱なパルスが、宇宙(そら)へ発信されていく。 応答はない。 やはり無駄だったのだ。

シズクは、すべてを諦めて窓の外を見た。 ロビンが消えていった闇の向こう。

その時だった。

「……え?」

ロビンが流されていった、その先。 星雲の最も濃いガスの流れが、まるで巨大な「風」が道を開けるように、ゆっくりと左右に割れていく。 そして、その割れ目の向こう側――

無数の光が、またたいていた。

それは星ではなかった。星団でもなかった。 規則正しく明滅し、隊列を組む、人工の光。 それは、銀河ハイウェイを示す、未知の航路標識(ブイ)の列だった。

ロビンは、偶然にも、この星雲を抜ける「道」へと流されていったのだ。 ロビンの「傷だらけの羽」が最後に指し示した場所。

シズクが発信したビーコンの微弱な光が、その航路標識の一つに反応し、連鎖的に光を呼び覚ましていく。 まるで、「風よ、ここへ来て」と呼んだ彼女の声に応えるかのように。

『アウルム』は、ゆっくりと、しかし確実に、その光の道へと引き寄せられていく。 それが故郷(「あるべき場所」)へ続く道なのか、それとも全く新しい運命への入り口なのか、シズクにはまだわからない。

彼女はただ、流れ着いた「こんなところ」から、再び流れ始めることを知った。 涙の乾いた頬で、シズクはコンソールを握りしめ、光の先を、ますぐに見つめていた。

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