
1. 導入(問題提起):あの日の挫折と「左側」の謎
「借方(かりかた)」 「貸方(かしかた)」
この二つの言葉を聞いて、どのような感情が湧き上がりますか?
もしかしたら、若い頃に簿記の資格を取ろうとテキストを開き、この最初の関門で「うっ…」と本を閉じてしまった苦い記憶が蘇るかもしれません。あるいは、社会人になってから、会社の経理部門から回ってくる書類や決算書に並ぶこの言葉を見て、「なんとなくは知っているけれど、人には説明できない…」という、ちょっとした“もやもや”を抱え続けているかもしれません。
私たち40代は、仕事でもある程度の経験を積み、世の中の仕組みも理解してきたつもりです。しかし、この「借方」「貸方」だけは、いまだに直感的に理解しにくい、と感じている方が驚くほど多いのです。
その最大の理由は、**「借方」という漢字のイメージと、ルールの“ねじれ”**にあります。
「借」という字は、日常では「借りる」こと、つまり「借金」や「負債」を連想させます。 それなのに、簿記の教科書はこう断言します。
「資産の増加は、借方(左側)に記入する」
「なぜ!? 借金とは真逆の、自分の財産(資産)が増えることが『借方』なの?」 「しかも、なぜ『左側』と決まっているんだ?」
この直感に反するルールを、かつての私たちは「そういうものだから」と丸暗記しようとし、そして挫折しました。
しかし、40代の今だからこそ、この「なぜ?」を丸暗記ではなく、その背景にある歴史や本質的な意味から解き明かしてみませんか?
この記事では、この「借方」の正体と、「なぜ左側が資産の増加なのか」という複式簿記の根本原理を、比喩や歴史を交えて徹底的に解説します。この「左側の謎」が解けたとき、今まで無味乾燥に見えていた会社の数字が、まるで一つの壮大な「お金の物語」のように、生き生きと見えてくるはずです。
2. 結論:簿記の「借方」は「借りる」ではない。“お金の行先”を示す地図の左側だ
先に結論から申し上げます。
私たちが「借方(左側)」を理解する上でつまずく最大の理由は、「借方」を「借りる側」、「貸方」を「貸す側」という、現代の日本語の感覚で理解しようとするからです。
簿記の世界における「借方(左側)」の本当の正体は、**「お金(あるいは価値)の“使い道”や“行先”」**を示すサイド(場所)です。
そして、その反対側である「貸方(右側)」は、**「お金(あるいは価値)の“調達源”や“出所”」**を示すサイド(場所)です。
つまり、簿記の「仕訳(しわけ)」とは、会社(や事業)で起こった一つひとつの取引を、「(右側で)どこからお金を調達してきて、(左側で)何に使ったか」を記録するための、**お金の「出所」と「行先」のペア(一対)**を記録する作業なのです。
「資産(例:現金)が増加した」という取引を考えてみましょう。 これは、「(右側:例えば『売上』という出所から)調達してきたお金が、(左側:『現金』という行先)に落ち着いた」と捉えます。
だから、お金の「行先」である「資産の増加(現金)」は、「左側(借方)」に書かれるのです。
この**「簿記=お金の出所と行先の地図」**という視点こそが、あの日の挫折を乗り越え、簿記の本質をスッキリと理解するための鍵となります。
3. 理由:なぜ「借方=左側=資産増加」という難解なルールが生まれたのか
では、なぜこのような直感に反する仕組みが、世界標準の会計ルールとして何百年も使われ続けているのでしょうか。それには、歴史的な経緯、簿記の目的、そして「ある形」が深く関わっています。
理由1:歴史の誤解? 「借方」「貸方」という“残念な”翻訳の歴史
そもそも、なぜこんなに分かりにくい言葉が使われているのでしょうか。
現在、私たちが使っている「複式簿記」という技術は、14世紀から15世紀のイタリア(ヴェネツィアなど)で、海を越えて商売を行う商人たちによって発明され、発展しました。
当時のイタリア語では、帳簿の左側を**「Debito(デビト)」、右側を「Credito(クレディト)」**と呼んでいました。 これは、元々「銀行と顧客の間の貸借関係」を記録する帳簿がベースにあったとされています。Debitoは「(顧客が銀行に)与えるべきもの、借り」、Creditoは「(顧客が銀行から)与えられるべきもの、貸し」といったニュアンスでした。
これが英語に翻訳される際、左側は**「Debit(デビット)」、右側は「Credit(クレジット)」**となりました。デビットカードやクレジットカードでお馴染みの言葉ですね。
そして明治時代、西洋の知識が日本に雪崩れ込む中で、この簿記の技術も輸入されました。この時、かの有名な福沢諭吉らが、この「Debit」と「Credit」を日本語に翻訳する必要に迫られました。
彼らが選んだ言葉が、**「借方(かりかた)」と「貸方(かしかた)」**だったのです。
これは、当時「間違い」ではありませんでした。当時の日本にはすでに、商家で使われる帳簿の用語として「借方(かりかた)=借りがある人(債務者)」「貸方(かしかた)=貸しがある人(債権者)」という言葉が存在していたため、それを当てはめたのです。
しかし、時代は流れました。 現代の私たちは、「借方」や「貸方」という言葉を日常で使うことはありません。その代わりに、「借」「貸」という漢字を「借りる(動詞)」「貸す(動詞)」という意味で毎日使っています。
その結果、私たちは「借方」という言葉を見た瞬間、無意識に「借りる=借金=マイナス」というイメージを脳内に呼び起こしてしまいます。
これが、私たちが簿記を学ぶ上でつまずく、**歴史的な翻訳の“わな”**なのです。もし当時、福沢諭吉が「左方(さほう)」「右方(うほう)」、あるいは「使途方(しとほう)」「源泉方(げんせんほう)」などと翻訳していたら、簿記で挫折する人は半分以下になっていたかもしれません。
理由2:簿記の目的は「財産リスト」ではなく「お金の流れ」を“二面的”に記録すること
私たちが日常でつける「家計簿」を想像してみてください。 多くの場合、「食費 1,000円」「交通費 500円」というように、「使ったこと(費用)」だけを記録していきます。これは「単式簿記」と呼ばれ、非常にシンプルです。
しかし、会社(や事業)の経営では、これだけでは不十分です。 経営者は、以下の二つの情報を正確に知る必要があります。
- 今、財産がいくらあるか?(財産リスト)
- どうやって、いくら儲けたか?(成績表)
この二つを同時に、かつ正確に記録するために発明されたのが「複式簿記」です。
複式簿記の最大の特徴は、家計簿と違い、すべての取引を「原因」と「結果」の二つの側面(二面性)で捉えることです。 「一つのこと(取引)が起きたら、必ず二つのこと(原因と結果)が同時に動く」と考えます。
例えば、「商品を1万円で、現金でお客さんに売った」という取引。
単式簿記(家計簿)なら、「売上 10,000円」としか書きません。 しかし複式簿記では、これを二つの側面から見ます。
- (結果):手元の「現金」が10,000円増えた。
- (原因):なぜなら「売上」が10,000円発生したからだ。
この「原因と結果のペア」を記録するために、どうしても左右二つの記録スペースが必要だったのです。
そして、ルールを決めました。 「左側(借方)」には、その取引によって**「お金(価値)がどういう形になったか(行先)」を記録しよう。 「右側(貸方)」には、その取引の「お金(価値)がどこから来たか(出所)」**を記録しよう、と。
先の例で言えば、 (左側:行先)現金 10,000円 (右側:出所)売上 10,000円 となります。
このように、複式簿記とは、財産が動いた「結果(行先)」と、その「原因(出所)」をワンセットで追いかけ続けるシステムなのです。「借方」という言葉の意味に惑わされてはいけません。あれは単なる「左側のスペースの名前」に過ぎないのです。
理由3:すべては「貸借対照表(バランスシート)」の形から始まっている
これが最も本質的な理由です。 「なぜ左側が資産なのか?」――その答えは、会社の財産状態を示す「貸借対照表(たいしゃくたいしょうひょう)」、別名「バランスシート(B/S)」の形にすべて集約されています。
バランスシートは、会社のある一時点(例えば決算日)での「財産リスト」です。 このリストは、必ず左右二つのセクションに分かれています。
【左側(借方サイド)】 ここには、会社が持っている財産(=資産)が並びます。 現金、預金、建物、土地、商品、車、パソコン…。 これらはすべて、会社が調達してきたお金を**「どういう形で使っているか(運用しているか)」**を示しています。これが「お金の行先」です。
【右側(貸方サイド)】 ここには、その財産(資産)を「どうやって調達してきたか」が並びます。 調達源は二種類しかありません。
- 負債:他人から借りてきたお金(銀行からの借入金など)。いずれ返さなければならないお金。
- 純資産:株主が出してくれたお金(資本金)や、会社が過去に稼いで蓄積した利益(利益剰余金)。返さなくてもよい自分のお金。
そして、複式簿記の最大のルールがここで登場します。
【(左側)お金の使い道 合計】 = 【(右側)お金の調達源 合計】
これは必ず一致(バランス)します。当たり前ですね。「調達してきたお金(右側)」以上に、「お金を使う(左側)」ことはできないからです。
この**「B/Sの形(左=資産、右=負債・純資産)」こそが、簿記のすべてのルールの親分(土台)**なのです。
日々の「仕訳」とは、このB/Sの形を維持し、更新していくための作業に他なりません。
- B/Sの「左側」にある「資産」が増えたら? → 当然、仕訳でも「左側(借方)」に書きます。(例:現金が増えた)
- B/Sの「右側」にある「負債」が増えたら? → 当然、仕訳でも「右側(貸方)」に書きます。(例:借金が増えた)
- B/Sの「左側」にある「資産」が減ったら? → B/Sの左側を減らすために、仕訳では反対の「右側(貸方)」に書きます。(例:現金を支払った)
では、この記事の冒頭の定義にあった「費用の発生は借方(左側)」とは何でしょうか?
例えば、「交通費(費用)を1,000円、現金(資産)で支払った」とします。 この時、「現金(資産)」が1,000円減りました。 資産が減った(B/Sの左側が減った)ので、仕訳では「右側(貸方)」に「(貸方)現金 1,000円」と書きます。
そして、複式簿記は必ず「原因と結果のペア」で記録します。 その相手(原因)として、「左側(借方)」に、「交通費 1,000円」と書くのです。 (借方)交通費 1,000円 / (貸方)現金 1,000円
「費用」とは、利益を生み出すために使ったお金、つまり「資産(現金など)が減った理由」です。だから、資産の減少(貸方)の相手側である「借方(左側)」に登場するのです。これもまた、お金の「行先」を示しています。
4. 具体例:日常の取引を「出所」と「行先」で分解してみる
理屈は分かりましたが、まだピンと来ないかもしれません。 ここで、私たちの日常やビジネスで起こる具体的な取引を、例の「お金の地図(出所と行先)」のルールで仕訳してみましょう。
例1:あなたがカフェで、仕事の打ち合わせのためにコーヒー代1,000円を「現金」で支払った。
- お金(価値)の出所(右側)は?
- → 「現金(資産)」が1,000円、財布から出ていきました。(資産の減少)
- お金(価値)の行先(左側)は?
- → 「会議費(費用)」という名目で、1,000円分を使いました。(費用の発生)
- 【仕訳】
- (借方)会議費 1,000円 / (貸方)現金 1,000円
例2:あなたが事業のために、銀行から300万円を借りて、それが「普通預金口座」に入金された。
- お金(価値)の出所(右側)は?
- → 銀行からの「借入金(負債)」300万円です。(負債の増加)
- お金(価値)の行先(左側)は?
- → 会社の「普通預金(資産)」300万円として入金されました。(資産の増加)
- 【仕訳】
- (借方)普通預金 3,000,000円 / (貸方)借入金 3,000,000円
- (ほら、「借方」という言葉に反して、「借入金」は右側(貸方)に来ました。そして、「資産の増加(普通預金)」が左側(借方)に来ました。これが「資産の増加は借方」の正体です!)
例3:あなたがフリーランスとして仕事をし、請求書を送った。売上20万円は、まだ入金されておらず「ツケ(売掛金)」の状態だ。
- お金(価値)の出所(右側)は?
- → 「売上(収益)」が20万円発生しました。(収益の発生)
- お金(価値)の行先(左側)は?
- → 「後で20万円をもらう権利(売掛金という資産)」を手に入れました。(資産の増加)
- 【仕訳】
- (借方)売掛金 200,000円 / (貸方)売上 200,000円
- (現金は動いていなくても、「価値」の出所と行先を記録するのが複式簿記です。「売上」という収益を源泉に、「売掛金」という資産(権利)が生まれた、と記録します。)
このように、すべての取引を「左側(行先)」と「右側(出所)」のペアで捉え直してみてください。「借方」「貸方」という呪文のような言葉に惑わされる必要は、もうありません。
5. まとめ:簿記は「お金の物語」を語る言葉である
今回は、多くの40代が長年抱えてきた「借方」という謎について、その歴史的な背景や、「お金の地図」という本質的な役割から解き明かしてきました。
ポイントを振り返りましょう。
- 「借方」「貸方」は歴史的な翻訳語。 明治時代に「Debit」「Credit」を翻訳した言葉であり、現代の「借りる」「貸す」という意味で捉えると、100%混乱します。
- 簿記の「左側(借方)」は、お金の「行先(使い道)」を示す場所。 だから、お金の行き着く先である「資産の増加」や、お金を使った目的である「費用の発生」が左側に記録されます。
- 簿記の「右側(貸方)」は、お金の「出所(調達源)」を示す場所。 だから、お金の源泉である「負債の増加(借金)」「純資産の増加(出資)」「収益の発生(売上)」が右側に記録されます。
- すべてのルールは「B/S(貸借対照表)」の形が土台。 「左=資産(使い道)」「右=負債・純資産(調達源)」というB/Sの形が親分であり、日々の仕訳はその形を維持・更新するための作業なのです。
「借方」「貸方」という言葉を、今日からあなたの頭の中で**「左側(行先)」と「右側(出所)」**に置き換えてみてください。
そうすれば、今まで無機質な数字の羅列にしか見えなかった会社の決算書が、「この会社は、銀行や株主からお金(右側)を集めてきて、それを工場や商品(左側)に変え、売上(右側)を上げて、給料(左側)を払っているんだな」という、**会社が繰り広げる「お金の壮大な物語」**として読めるようになるはずです。
この「お金の流れを地図化する技術」、あなたのビジネスや仕事、あるいはご自身の資産管理において、どのように活かせるでしょうか?
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